北欧は今から約1万3000年前まではほぼ全域に渡って氷床に覆われ、大陸とつながっていた。気温は7月でも零度近く、とけだした水は溜まってバルト氷湖をなしていた。その後、約1万2000年前くらいに気温が上昇し、氷床の後退につれて動植物と現在のドイツ北部を中心に栄えていたハンブルク文化の影響を受けた人々が北欧南部に入ってきた。
気温が上昇によって海と陸の面積や形なども2転3転するのだが、図解説明しないとわかりにくいのでこの辺は割愛させていただく。 (まあ、このあいだにスカンディナビアがブリテン島やアイルランド、ヨーロッパと陸続きになったり、ヨーロッパと離れたりする、とだけ書いておくので各自で地形を想像して見るのも一興か)
紀元前2000年から1800年ごろに闘斧(バトル・アックスってやつか?)文化がバルト海沿岸全域に普及した、と言う記述を見ると斧を持つバイキングがイメージされるのは私だけではあるまい。とはいえ、バイキングの出現はまだまだ先の話である。
青銅器時代の住居はロングハウスが主体で長さ15メートル以上、幅6メートル以上のものまで立てられるようになる。
住居は2本の桁をもつ東西方向を向いたものが主体で、これは倉庫や作業所を含む多能建築物だった。また、スウェーデンの中部では住居周辺に土器、動物の骨、火を受けた跡のある石、青銅器の破片など生活廃棄物、いわゆるごみの山が多く形成された。
この時代には牛、馬、羊、豚、犬などが飼育されたが日常生活で最も重要な家畜は牛であり、祭祀で特別な役割を馬が果たしていた。また、岩壁には人物像、太陽、船、馬車、牛車などを描いた岩壁彫刻がなされ、スウェーデンだけで1万例が現存している。
青銅器時代〜鉄器時代初期にかけて、スカンディナヴィア半島北部とフィンランドでは、アスベスト土器やロシア中西部からの影響と見られる繊維土器が使用された。
ローマ鉄器期になるとギリシアのピテウスやローマのタキトゥスなどの著述に北欧のものらしき地名が現れ始める。ローマ世界との交易量は多くなかったものの、毛皮、琥珀、セイウチの牙などを輸出し、土器、ガラス製品、金属製品を輸入していたようである。この時代の遺跡も北欧南部に多く、フィンランドには僅しかない。
後期ローマ鉄器期に誕生したルーン文字もこの頃の北欧とヨーロッパ世界との接触を示す。ルーン文字は24文字からなり、期限はローマ文字やエルトリア文字にあると考えられている。この旧ルーン文字をともなうう遺物は北欧南部から中欧にいたる広範な地域で発見されている。7、8世紀になるとルーン文字の字母数は16に減少しその使用は北欧の生活圏内に限定される。
民族移動期には一部に環状集落が出現し、スウェーデン中部とノルウェー南西部で砦が急増したことからこれらの地域で社会的緊張が高まり、その理由として、略奪、疾病の流行などさまざまな説があるが最大の要因は地方的権力の台頭と言われている。これらの権力者のため突出した規模の墳丘墓が築造された。それらの中で有名なのが中部スウェーデンのガムラ・ウップサーラの古墳群で、なかでも一列に並んだ最大の3基は伝承詩『ユングリンガ・タル』に登場する三人の王のものといわれている。北欧最大の墳丘墓はノルウェーのラクネ古墳で直径100メートル、高さ15メートルに及ぶものである。
民族移動期以降8世紀末までは、デンマークで後期ゲルマン鉄器期、フィンランドでは後期民族移動期、ノルウェーではメロヴィング期、スウェーデンではヴェンデル期と呼ばれる。この時期には船葬墓があらわれた。被葬者を副葬品や殉葬動物とともに埋葬する船葬墓はスカンディナヴィア半島沿岸部を中心に北海沿岸やブリテン島などを加え230例以上が確認されている。この時期のものとしてはイングランド南東部のサットン・フー、中部スウェーデンのヴェンデルやヴァルスヤーデが良く知られている。ヴァイキング時代になると船ごと火葬する例も現れる。
一般の墳墓としては積石墓が最も多く、中部スウェーデンのみが墳丘墓を主流としている。
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