ヴァイキング時代


4.キリスト教化

 ヴァイキング活動が始まったとき、北欧では多神教の1種が信仰されていた。彼らの神々、ソール、オージン、フレイなどは広くゲルマン人の信仰と共通し、さらにインド=ヨーロッパ語系の神話世界との関連も見られる。ここの農民はそれぞれ特定の神を信仰していたが、他の神を信仰する農民との間で宗教的な軋轢はなく、地域的結集をする祭祀では複数の神々がまつられていた。

 11世紀初めの北ノルウェーでは、秋(冬を迎えるため)、真冬、春(夏を迎えるため)の3度、祭宴が行われた。祭宴の司祭は地域首長の任務であった。

 1070年頃に書かれた『ハンブルク司教座事績』によれば、神殿にはソール、オージン、フレイ3神の像があり、飢饉の際にはソール、戦勝のためにはオージン、結婚祝にはフレイが信仰されるが、9年に1度のスヴェーア人の大祭には3神にいけにえが捧げられ、王が供犠祭の司祭役を務める義務をおった。
 キリスト教の神ははじめ北欧人にとって新しい神の1人と受けとめられたが、キリスト教の排他性は異郷の神々との共存を許さず、キリスト教布教は既存宗教との戦いでもあった。また、地方の豪族達の権威と戦って中央権力として成長しつつあった王権は、さらに権勢を得るためにキリスト教を援助し、教会と同盟を結んでいた。

 後のハンブルク=ブレーメンの大司教となるアンスガルは、皇帝ルードヴィヒの命を受け、820年代と850年代の2度にわたってデンマーク、スウェーデンに宣教旅行を行った。アンスガルはデンマークとスウェーデンの王達の援助を受け、ヘーゼビューとビルカに教会を建て、改宗者を得たが、最終的には異教徒側の反撃にあって撤退した。
 北欧布教はアイルランド、イングランドからも行われたが、最初の永続的な成果をあげたのはデンマークに対してなされたハンブルク=ブレーメン大司教座の活動であり、ザクセン公家の政治的北進と結びついていた。すでに、948年にはユラン半島の3都市(シュレースヴィヒ、リーベ、オーフス)に司教が任命されており、ハーラル青歯王は、オットー家の進入に敗れ、960年ごろ洗礼を受けた。
 1103年ごろにデンマーク管区はハンブルク=ブレーメン大司教座管区から分離独立をした。当時の教皇庁はドイツ皇帝との闘争のさなかにあり、皇帝派を弱めるためにデンマークをドイツから分離させたといわれている。新管区領域はデンマークだけではなく北欧全体におよんでいた。1152年ごろにはノルウェーの、64年にはスウェーデンの大司教座がデンマークの管区から独立するが、これもデンマーク王と教皇の対立に関連していた。

 3王国のいずれでも王達は早くから改宗していた。ノルウェーで王となった最初のキリスト教徒は10世紀中ごろのホーコン善王である。彼は嬰児のころにキリスト教徒に養育されていたと言われている。それ以後も一貫して王達はキリスト教徒であったが、農民達は既存宗教を信仰していた。オーラヴ2世は暴力的に国民改宗を試みたが、農民・豪族達との戦いに敗れ死んでしまった。しかし、これがオーラブ2世に対する聖者信仰となりキリスト教は唯一の公認宗教となった。

 既存宗教の影響が最後まで残ったのはスウェーデンである。ここでも、10世紀末のウーロヴ・シェートコヌング以来歴代の王はキリスト教徒で、ウーロヴ時代に設置された司教座を拠点にキリスト教化が相当進行していた。しかし、王位継承にもかかわらる政治的中心地のウップサーラは既存宗教の中心地でもあり、王は9年に1度のガムラ・ウップサーラの大犠牲祭(そこでは人身犠牲も行われた)の司祭役を務めつづけた。11世紀にこの司祭役を拒否しようとしたステンキル朝のインゲ王は追放されたといわれている。12世紀初めにようやくキリスト教側が勝利し、ガムラ・ウップサーラの異教神殿後にキリスト教会が設置され、後にウップサーラ大司教座として発展する基礎が築かれた。


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