ヴァイキング時代


3.3王国の成立

 ヴァイキング時代の末期、スウェーデン、デンマーク、ノルウェーの3民族のそれぞれが王権に代表されて姿をあらわし始めた。

(1) スウェーデン

 現在のスウェーデン南部は14世紀半ばまでデンマーク王国の一部であり、1658年に最終的なスウェーデン帰属が決まるまでは両国の争奪の対象であった。また、フィンランドは1809年までスウェーデンの東方領であった。したがって、現在の「スウェーデン」の成立は19世紀はじめである。しかし、政治的統合体としてのスウェーデンの概念はヴァイキング時代にその原型が形成された。
 本来のスウェーデンの地には、中部のスヴェーア人の国、その南のイェート人の国があったが遅くともヴァイキング時代に統合されたと考えられているが、統合過程はよくわかっていない。スウェーデンの国名「スヴェーリエ(Sverige)」が“スヴェーア人(Svea)の支配領域(rige,riki)”を意味することや、英雄叙事詩『ベーオウルフ』に“ゲーアタス(イェート?)”の没落を示唆する表現があることなどから、スヴェーア王がイェート王国を制圧して併合したとする見解もあるが、推測の域を出ない。
 『ヘイムスクリングラ』は13世紀初めにアイスランド人スノッリ・ストゥルルソンによって書かれた史書であるが、その冒頭は9世紀以前のスウェーデン王家に関する伝承『ユングリング・サガ』である。そこに列挙されている王の名前のいくつかは『ベーオウルフ』にもみられ、中東部スウェーデンの古墳群に関連のあるものと考えられている。また、9世紀の北欧伝道者アンスガルの伝記『聖アンスガル伝』にも、中部スウェーデンの王の名と多少の事績が述べられているが、これら王の統治領域は確定できず、どのような「王権」であったかもよくわかっていない。

 スヴェーランド全域にわたる最初の王は“勝利王”と渾名されたエーリックである。伝承によるとエーリックは、西欧から帰還しようとするヴァイキング(甥のスチュールビョルンが指導者でデンマーク王の支持を受けていた)との決戦に勝利し、スヴェーランドの支配者となった(フェーリスヴァッラナの戦い)。これが、980年頃。後を継いだその息子ウーロヴ・シェートコヌングは支配圏がイェート人地域にもおよぶことがほぼ確実な最初の王であり、デンマーク王と結んでノルウェー王と争った(スヴォルドの海戦)。つぎの王アーヌンド=ヤーコブはノルウェー王と同盟を結んでデンマーク王と戦った(カルマル沖、ヘリエオーの戦い)。
 アーヌンド=ヤーコブの後を継いだ弟のエムンドが1060年ころに死ぬと、長きにわたったウップサーラ出身のいわゆるユングリング朝は途絶し、ヴェステルイェートランドの豪族ステンキルが王位に就いた。ステンキル朝についてのよくわかっていない。

(2) デンマーク

 「デンマーク」は“デーン人の国”を意味する。デンマークの領域は、ユラン半島、現在のスウェーデン南部のスコーネ地方、シェラン島などの島嶼部の3地方からなり、統合はしたものの3地域の自立の傾向が長く続いた。ヴァイキング時代には現在のノルウェー南東部にも影響力を持っていたようである。
 9世紀にカール大帝のザクセン征服によってフランク帝国がデーン人と直面することとなったとき、デーン人の王はゴズフレズであった。この王はヴェンド人の都市を破壊し、住民をデンマークの南境の交易地に居住させザクセン人との防壁にした、という史料がある。

 ハーラル・ゴームソン(青歯王)は10世紀に実在したことが確実な王である。ユラン半島南部の古墳脇にある石碑によれば、この王はデンマーク全土とノルウェーを支配下におき、デンマーク人をキリスト教化し、古墳の一つを父王ゴームと母チェーレのために築造させた。

 イングランド征服で名高いスヴェン(双叉髭王)はハーラルの息子である。スヴェンは980年代から大艦隊を持ってイングランドを襲い退去料をとって引き上げていくこと繰り返していたが、11世紀になると征服を始め、1013年にはイングランドの王となった。
 急死したスヴェンの後を継いでイングランド征服をやり直したクヌーズ(カヌート大王)は、1016年11月にイングランドの王となった。デンマークは兄が王となっていたが、その後継いでデンマーク王にもなり、さらに1027年ノルウェーとスウェーデンの連合軍と戦い、翌年ノルウェーの王位も手に入れた。こうしてクヌーズはイングランド、デンマーク、ノルウェー(おそらくはノルウェー南部と北ドイツ・ポーランド沿岸部)を支配下におくことになった。以後、デンマーク王国はバルト海と北海を結ぶ通路を支配することになるが、当時はこの「北海帝国」は、クヌーズの人格によって彼を共通の王としていた独立国の集まりであったため1035年の彼の死とともに北海帝国は瓦解していった。

(3) ノルウェー

 政治権力の細分・割拠傾向はノルウェーでは山岳の多い地形によっていっそう助長されていた。「スウェーデン」が“スヴェーア人の支配領域”、「デンマーク」が“デーン人の国”を意味したのとは違い、「ノルウェー(ノルゲ)」は“北の道”を、「ノルウェー人」は“北の人”を意味する。北の道(沿岸部)とそこから深く内陸に伸びるフィヨルドは人々を結びつける交通路であった。

 9世紀末、南東部の小王家出身と伝承されるハーラル美髪王が北ノルウェーのヤール家と同盟して最初の全国統一を実現したと去れているが、実質的にこれは沿岸部の統一であった。彼の支配ののち、彼の子孫やヤール家との間で跡目争いが繰り返された。10世紀の中ごろのホーコン善王や、10世紀の終わりごろのヤール・ホーコン、それに続くオーラブ・トリュグヴァソン王はそれぞれノルウェーの統一を実現したと伝承されるが、実際には名目上のもので諸地域はそれぞれ自立していた。

 11世紀初め、実質的な統一王権の確率を目指したオーラブ2世(聖王)はクヌーズ王と結んだノルウェー豪族達の連合軍に追われて敗死した。このころからノルウェー人はデンマーク王に対する独立のためにも自国の統一王権を受け入れるようになり、11世紀後半オーラブ2世の異父弟ハーラル・シグルソン(苛烈王)の時には内陸部も統合された。

(補) ちなみにフィンランドはというと

 この頃、フィンランドの政治的結集はまだ未発達で、多数派言語のフィン語を話すフィン人は南西部のスオミ、その東方の内陸部ハメーンリンナ、その東方のカレリアの3地方に分かれ、それぞれが文化的、経済的なまとまりが出来つつあったが、フィン人全体としてのまとまりもなく、地域的としても政治的なまとまりは出来ていなかった。
 フィンランドの農民が冬期の副業で行う狩猟で取れるテン、リス、ミンクなどの毛皮は当時から需要の高い商品であったため、成立したばかりのスウェーデン王権によって征服され、スウェーデン王権はフィンランド住民からの租税をしばしば毛皮で要求していた。


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