薔薇戦争(1)

 1435年、イギリスは長い戦争状態にあったフランスと和平のための会議を行ないましたが双方折り合いがつかず、会議は不調に終わりました。その後、イギリスは捕虜にしていたフランスの貴族オルレアン公を釈放し、オルレアン公を仲介として和平交渉を行なうとしました。
 オルレアン公は同じフランスの貴族であるアルマニャック伯の娘をイギリス国王ヘンリ6世と結婚させるための交渉を行なっていましたが、フランス国王シャルル7世がイギリスが占領していたガスコーニュ地方を攻撃してきたため、交渉は一時中断されました。
 イギリスはガスコーニュ防衛のためにサマンシット公ジョン・ボーフォールを派遣しましたが、防衛することはできませんでした。そして、翌年オルレアン公も病死したため、アルマニャック伯の娘との結婚の話はそのままなくなってしまいました。

 この頃からオルレアン公の監視役をしていたサフォーク伯ウィリアムが台頭してきました。彼はイギリスがフランスの王位に固執している限りフランスとの和平は実現しないと考え、1443年ヘンリ6世とシチリア王の娘との縁談をすすめました。そして、サフォーク伯はフランス王とシチリア王に会見し、イギリスがフランスの王位を捨てる代わりに ノルマンディ-、メイン、ギュイエンヌの地方を領有することを認めるように交渉しました。この縁談交渉はうまくいき、1445年にヘンリー6世はシチリア王の娘マーガレットと結婚することになりました。

 サフォーク伯はこの交渉を成功させたことによりマーガレット王妃の信頼を得て宮廷の実力者となり、そのころ宮廷で同じように権力のあったヘンリー6世とその叔父グロースター公との関係を悪化させグロースター公を宮廷から追い出してしまいました。そして、マーガレット王妃の後押しを受けサフォーク伯はサフォーク公となり宮廷内での権力がさらに強くなりました。しかし、サフォーク公の宮廷での専横ぶりはひどく、彼に対する反感も強くなってきました。

 この頃、農村では貴族や領主の支配力が衰え代わって地主達が支配力を持ち始めました。そして、一部の地主の無法な土地獲得が目立ち、また、サフォーク公の領土にいる地主がサフォーク公の権力を背景に自分に不利な判決をしそうな裁判官の裁判を拒否したり、法廷を威圧したりしていました。そして、1449年フランスにルーアンを取り戻され、ノルマンディ-からの撤退という戦局の悪化も手伝いサフォーク公の専横とそれを許しているランカスター王朝は痛烈な批判にさらされ、国内は乱れはじめました。
 まず、青ひげの一揆と呼ばれる一揆がカンタベリーで起き、5月になるとヨーク派を自称するジャック・ケイドに指導された民衆が戦争財政の重圧排除、内外の執政に対する責任の糾弾を唱えて一揆を起こしました。
 そのころすでにサフォーク公は敵対するものにより大逆罪として告発され国外追放の処分を受けました。そして、イギリスから船で出奔したときに、自身が引き起こした国民の像をが余りにも強かったため、その船の乗組員に殺されてしまいました。

 こうした、民衆の一揆はサフォーク派の貴族たちによる政治体制に致命的な打撃を与え 、ヨーク派を台頭させるきっかけとなりました。


次のページ      目次へ
【歴史の部屋】へ   トップページへ
ご意見、ご感想はこちらまで