薔薇戦争(2)

 ヨーク公リチャードは辺境伯、ケンブリッジ伯をかねて大所領を持っていたがヘンリー6世の治世の初年はサマシット公ジョン・ボーフォールやサフォーク公らの専横の前に屈していました。しかし、サフォーク公追放後の1450年9月ヘンリー6世がランカスター派のサマシット公エドモンド・ボーフォール(ジョン・ボーフォールの息子)を重用するようになるとようやく立ち上がり、庶民院を指導しサマシット公ら奸臣の追放、宮廷費の削減、王領地回収などを主張しはじめました。こうした庶民院の批判にもかかわらず、サマシット公らは国王諮問会議を牛耳りヨーク公派のものを暗殺するという事件を起こしていました。

 こうして、サマシット公を代表としたランカスター派とヨーク公派とが対立することになりました。両派ともエドワード3世から出た王族であり、地方にいる貴族たちはどちらかの派閥につらなり、王領地の譲与や利権の多い官職にありつくことを願っている、と言った状況でした。そのため、ヨーク派がランカスター派を糾弾してもその政治体制が崩れることはありませんでした。

 そこで、ヨーク公は1452年1月に仲間の貴族と共にロンドンへ出向き、ウインチェスター司教の仲介で、ヘンリー6世と会見しサマシット公を拘禁すると言う約束を取りつけました。しかし、実際にはサマシット公が拘禁されませんでした。そして、ヨーク公のこの行動はサマシット公の怒りを買い、サマシット公はヨーク公に対して虐待を行ないました。ヨーク公は息子の辺境伯エドワードにより救われましたが、サマシット公はヨーク公の執事を拘留し、また各地にランカスター派を集めヨーク派を牽制しました。
 しかし、大陸でのフランス軍との戦争では惨敗を喫し、ランカスター派の内外の失政はヨーク派の批判の声を高め、諮問会議においてはサマシット公とヨーク公が対立し、地方においてもランカスター派とヨーク派の貴族が対立していました。

 1453年ヘンリー6世は神経症の発作を起こし、サマシット公が諮問会議を主宰しましたがサマシット公の専横を恐れた貴族たちはヨーク公を摂政に指名しました。ヨーク公はヨーク派のソールズベリ伯リチャードを大法官に任命しサマシット公を投獄してしまいました。しかし、ヘンリー6世が健康を取り戻し、親政を再開するととサマシット公を釈放してしまいました。
 そして、マーガレット王妃が病気から回復したばかりのヘンリ6世に替わり宮廷でいっさいのことを取りしきっていました。そして、西の方で勢力を持っているバッキンガム公ハンフリー、ペンブルック伯ジャスパー・テューダ-、グェント領主サー・ウィリアムらをランカスター派に取り込もうといろいろと策略をめぐらしていました。

 そして、ヘンリー6世が親政を再開した後ヨーク派の要求を無視したことに抗議してついにヨーク公は挙兵し、ランカスター派とセント・オールバンズで戦火を交えることになりました。
 ヨーク派は白薔薇をランカスター派は赤薔薇を紋章としていたことからこの戦いを始めとしたヨーク派とランカスター派の戦いは後に「薔薇戦争」と呼ばれるようになりました。


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