Asmara Letters



Subject: アスマラ便り5
Date: Tue, 29 Sep 1998 01:14:14 +0300
From: 佐藤 寛
To:  宇田川学

 ご無沙汰しています。
 結局アジ研からは「転任中止」の指令を受けてしまい、3月末までサナアにいることになりました。その埋め合わせというわけてはないですが、今月(9月)エリトリアに行ってきましたので、アスマラ便りをお送りします。今回5〜11まで書きためてきましたから、これから週一回のペースで配信します。どうぞよろしく。


「日曜日、アスマラ」

 9月のある日曜日の朝、アスマラに着きました。といっても駐在のためではなく、短期の出張なのですが。
 機上から見る雨上がりのアスマラ盆地は、うっすらと実りつつある麦畑とまだ若いキビ畑の黄色と緑で覆われた畑に囲まれて、のどかな秋の気配を見せていました。5月の爆撃の跡を上空から見つけようとしましたが、滑走路は特に異常はなく飛行機の離発着には支障はありません。エジプト航空1751便はほぼ定刻にアスマラに着陸しました。

 現在エリトリアに乗り入れているサウジ航空やエジプトの航空は、以前はアスマラとアジスアベバの両方を一つの便でカバーしていました。例えばエジプト航空は週二回の便で、カイロ〜アスマラ〜アジス〜カイロ回りと、カイロ〜アジス〜アスマラ〜カイロ回りを交互に運行していました。しか国境事件以来エチオピアとエリトリアとの間の直接の行き来はできなくなっているので今は別々の便として運行しています。今日の便もカイロ空港のゲートは隣り合わせなのですがアスマラ行きは午前5時半発、アジス行きは午前7時半発になっていました(乗客が混ざらないようにという配慮でしょうか)。
 機体は定員90人程度のボーイング737、乗客はヨーロッパ人が2人、東洋人が2人(私ともう一人はおそらく中国人の女性)、そしてエジプト人と思われるアラブ人10人ほど、あとはエリトリア人が60人ほどです。自国の航空会社を持たず、毎日飛んでいたエチオピア航空がなくなった今、こうした周辺国によるフライトは物資調達、外国とのコミュニケーションの維持のために極めて大きな意味を持っています。サウジ、エジプトともさすがに「地域大国」としてエリトリアに大きな貢献をしていると言えるでしょう。これ以外にジブチ航空もアスマラに乗り入れていますが、なんと言ってもルフトハンザ・ドイツ航空が週に3便を乗り入れていることは、生半可な援助プロジェクト以上の意味を持っていると言えるでしょう。そういえばフィリピン航空が倒産するという話を聞きましたが、経済性優先・グローバル化などが浸透すれば、「フラッグ・キャリアー」を持たない国もこれから増えるのかもしれませんね。まずエリトリアはその先駆というべきでしょうか。でも、不便です。

 飛行機はカイロを発って、ナイル川に沿って南下する二時間半のフライトを終え、アスマラ空港の滑走路に着くと、滑走路脇の草むらに野生の淡いピンクの花(コスモスでしょうか)がたくさん咲いていて、その色があんまり淡いので遠くから見るとピンクの煙が漂っているように見えます。何となく控えめでうらがなしい色なのですが、エリトリアらしいといえば言えるでしょう。

 飛行機が停まるターミナル前の駐機場だけは新しいアスファルトが黒々しています。ここが爆撃の被害にあったからでしょう。でも、気温は18度、高原の朝のさわやかな空気です。いつものように飛行機から歩いてターミナルに入り、入国手続きに並びます。ターミナルビルは特に被害を受けていないようです。エジプトの入国手続きの手際の悪さ、何とか外人から金をかすめようとする輩がロビーにうろついている不快さを経験して来たばかりの身には、この空港の清潔さはすがすがしく感じられます。4つある入国管理のボックスには全てきちんと制服を着た係官が座っていて、高圧的なそぶりを見せることもなくてきぱきとスタンプをさばいています(たいていの中東・アフリカの国ではボックスがたくさんあっても、一つか二つしか開いてなくて、係官はいるのに知らんぷりしておしゃべりしたりしていることが多いですから、全てのボックスに係官が座っている、というだけで私は嬉しくなってしまうのです)。
 荷物検査では「何か申告するものはありますか」と聞かれます。むかしは「ラジカセなどの電気製品を持っていますか」と聞かれたものですが、今は「ラップトップとかありますか」です。「あります」と答えると、向かいのカウンターで登録用紙に記入し、「出国するときには持って出ます」というところにサインするわけです。でも、係官が現物を見るわけでもなく、自己申告にまかせてかなりルーズなものです。実は前回も私はラップトップパソコンを持っていたのですが、「申告するものはありません」と答えたらそのまま通過させてくれました(今回は出国の時にちゃんと現物を見せるように言われました)。

 ターミナル出口に銀行があって両替します。5月は1$7.30ナクファでした。今回9月は7.45ナクファになっています。通貨の下落は戦闘の影響かも知れません。1ナクファ約18円というところです。(もっとも町の中心の郵便局のまわりにたむろしているちょっとあやしげな路上の両替屋は7.7と言っています)。
 空港前に並んでいるタクシーの台数は前回もそうでしたが、2,3台です。黄色いオペルで、メーターは付いていますが使われていません。1993年の独立以降タクシーの台数(自動車全般にいえますが)はあまり増えていないのではないでしょうか。このタクシーは独立後政府がまとめて購入して、PFLPの元戦士に優先的に売却したものです。価格は8万4千ブル(去年まではエチオピアブルが貨幣単位でした=約150万円)で、半額を頭金として払って後は月賦というシステムだそうです。ゲリラ兵士の転職対策というわけです。タクシー代は空港から町まで45ナクファ、これは5月と変わっていません。もちろん外国人価格でしょう。エリトリア人は相乗りしているようです。

 空港から町へ向かう道は雨のせいでしょうか、少しいたんでいて所々に穴が開いています。もっともこの国では車はスピードを出さないのでたいした問題ではありません。空港近くや町の周辺には近代的ビルが韓国の会社(KEANGNAM?)などによって少しずつ増えている(5月の戦争で一旦韓国人も避難しましたが、今は戻って工事を再開しているということです)とはいえ、町に入ればイタリア植民地時代に建てた家がイタリアの田舎町といった風情でそのまんま残っています。道をのんびり歩く人々の表情から日曜日の朝のくつろいだ雰囲気が伝わってきます。ほどなく住宅地の一画にあるホテルに着きます。5月の戦争以来外人が減っているので、どのホテルにもあまり客はいないようです。このサラームホテルはイタリア時代に建てられた老舗のホテルです。天井はやたらに高いし、トイレは客室と同じくらいの広さがあっていいのですが、老朽化しているので現在改修工事が行われているところです。ドア、クローゼット、机などはみな国産でちょっと建て付けは悪いですが、輸入品で済ませないところがこの国の心意気でしょう。部屋の掃除は行き届いて、昨日まで泊まっていたロンドンの町なかのB&Bのホテル(値段はここの倍くらい)よりも、ずっと清潔な感じで広いです。

 荷物をほどいて、すぐに近くのアスマラ大学教員宿舎に友人を訪ねていきました。歩いて3分の距離です。彼に聞きたいことが一つありました。サナアにいてエチオピア人などと話していると、「アスマラはエチオピアとの交易が出来なくなって、飢えている」と言うのです。これはエチオピア人の「エリトリアなんて、しょせん俺達が面倒見てやらなきゃやっていけない国」という感情を反映しているのですが、実際いわゆる主食である「インジェラ」の原料となる「テフ」(穀物)はほとんどエリトリアでは自給できないので、エチオピアとの国境貿易がないと、これが調達できないのは事実だと思うからです。また、物価も一般に上がっている、という噂も聞きました。
 でも、友人は言下に否定しました。
 「今回の問題が発生した直後、政府はこのことで国民に訴えかけた」「インジェラをテフで作るのは都市の文化であって、農村部ではもともとテフなど用いていなかった」「われわれはテフに依存することなく、ソルガムやミレット(キビ、アワのたぐいです)で生き抜こう」と。そして、その日以来エリトリアの人々は仮にテフがそこにあってもテフを用いなくなった、と言うのです。
 うーん。なんだかできすぎているけど、エリトリア人ならそんなこともあり得るかもなあ、と私は思いました。でも、そうだとすればエリトリアは「長期戦」を覚悟している、ということにもなるでしょう。実際、夕方町にでてみても、5月に比べてさほど物価が上昇しているようには見受けられず、野菜・果物など生鮮食品も含めて、物資が不足しているという印象は受けませんでした。コーヒー豆もエチオピア産もあれば、インド産もあり、品質は落ちるけれどエリトリア産もありました。こうしてみると庶民の暮らしには取り立てて戦闘の影響も後遺症もないというのが正直な感想です。
 エチオピアは実際にエリトリアに売るテフの価格を紛争後100kgあたり300ブルから650ブルにつり上げたそうです。でも、買わないで済ませられるならたいした問題ではないわけです。ところで、エリトリアの両替屋ではエチオピアの通貨1ブルを1ナクファに換えてくれます(ブルを買うには1.05ナクファ必要ですけれど)。アジスアベバではどうなっているのでしょうか。そもそもナクファの存在を認めていないから、両替できないのかもしれませんね。

 昼下がり、町の中心部にあるローマ・カトリックのカテドラル(1922年にイタリア人によって建てられたものだそうです)からは、スピーカーを通して子ども達の嬉しそうな聖歌の合唱が町中に溢れだしていました。日曜日、のどかなアスマラです。


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Last updated 4.Oct.1998