Asmara Letters



Subject: アスマラ便り7
Date: Fri, 11 Dec 1998 02:38:36 +0300
From: 佐藤 寛
To:  宇田川学

「NGOなんていらないよ」

 エリトリアにいたほとんどの欧米NGOが一斉に撤退したのは去年の暮れから今年の始めにかけてです。セイブザチルドレン、OXFAMなどの老舗も次々に「店」をたたんでいきました。今、昔からいるキリスト教ミッショナリーを除いてはほとんどの西欧NGOは姿を消しています。多くの途上国でNGOへの「需要」が拡大し、我々が調査にいっても人々から「いつ、何が届くのか」とせがまれることばかりのこの世界で、一体何が起こったのでしょうか。この出来事はドナーの世界ではちょっとした話題になったものです。
 政府の役人や、国際機関に働いているエリトリア人スタッフに「何でドナーを追い出したんだ」とたずねると、ほぼ公式通りに二つの点が強調されます。それは

と言うことです。別に政府や党からそう説明するような圧力がかかっているわけではないでしょう。彼らは自分たちの国家の政策を理解し、納得してそう説明しているようです。

 「どうしてこうなったか」という問いに対する答には、もう少しさまざまなバリエーションがあります。欧米NGOのお節介な態度には我慢できない、という心証もちらほら見受けられ、それには私も共感するところが多いのですが、それ以外にもいくつか理由はあって、中には「青臭い」とも言えるような「建前」、あるいはちょっと開発援助を聞きかじった日本の高校生などが言いそうな「理想」論も混ざっているような気もするのですが・・・。

 最後の二つ、お金がドナーに環流する「ために」とか、何か政治的な下心があって援助しているのではないか、というような「援助性悪論」は、私の取る立場でありませんのでとりあえず脇に置いておきましょう。

 「自助、自立、自律」(self-dependent, self-sufficient, self-reliance)」という、今やノスタルジックな言葉の響き。開発や援助に関する勉強をした人なら幾度も本の中でお目にかかり、次第に見慣れて読み飛ばしてしまいがちになるこの言葉。少しこの分野で経験を積んだ人ならいかにそれが困難なことかを身に浸みて知ってしまう理想。それを反体制NGOならまだしも、一つの国が国を挙げて、国民をあげて、今この期に及んでそれに取り組もうとしていることに、わが目を疑ってしまう、というのが私の正直な感想です。もしもこれが成功すればこれまで30年の「先進国主導の開発援助」の経験をあざ笑うことになるでしょう。それはきっと少年探偵団が巨大なマフィアをやっつけるような、そんな極めて爽快な気分をわれわれに感じさせてくれるでしょう。
 いまひとつ、私がとても注目しているのは、あまり表向きには語られませんが「NGOは国民の一体感を損なう」という危惧があったらしい、ということなのです。NGOは「弱者」を好みます。社会の中のマイノリティー、「虐げられている人々」が格好のターゲットです。彼らに社会の中で自らの置かれている立場を「覚醒」させ、自らの力で立ち上がることを支援する。それは確かに大切なことですが、エリトリアには今、くにづくりという課題があって、まず一体感を醸成しなければならないと政府は考えています。そんなときにNGOが勝手に「マイノリティーの覚醒」なんてことをされてはたまらない。もちろん、マイノリティーの権利は大切ですが、この国のようにある程度の配慮を自らしていくことのできる国であれば、その段取りと順番はよそ者が決めることではないのかも知れません。

 「お節介なNGOはいらない」という路線を指導しているのは、イサイアス・アフェウォルキ大統領です。あまり偉ぶらないその話し方、それでいて論理的で明確なポリシーを次々に打ち出していく政治スタイルに、多くの国民は信頼をよせ人気も高いようです。ただ彼は国際社会でも歯に衣着せずにしゃべってしまい、他国の首脳からひんしゅくを買いがちだと言うことは以前もお伝えしました。9月のはじめに南アフリカで行われた第12回非同盟諸国サミット(この非同盟会議も70年代に持っていたその輝きはすっかり色あせてしまったように思われますが)でも、彼はちょっと周囲から「浮いた」発言をしたようです。
 「・・・私見では、発展途上世界の救世主は決して外界からはやってこないのです。先進諸国同胞から我々が引き出すことに成功する援助の総額や、債務繰り延べや債務帳消しなどの譲歩も、せいぜい我々の開発の一部をまかなうか、触媒になるに過ぎません。つまり、南北世界の格差は、我々自身が我々の持っている資源、創意、そして勤勉に確固たる信念と確信を抱かない限り決して縮まりはしないのです・・・」(Alfajr紙98/9/13)
 他の途上国のリーダーも同様なことを演説で言うかも知れません。しかし同時に「先進国との協調」「グローバル化への対応」についても言及するでしょう。エリトリア大統領はむしろ冷戦終結後の「世界の一極化」への懸念を繰り返し表明します。
 そしてNGOの「追い出し」です。私は、期待しています。この国のその頑固さに。「お節介嫌い」のプライドに。国を作り上げていくために必要なものは具体的な能力よりも何よりも、出発点としてのこの「プライド」なのかもしれません。
 ただし、それが単なる「理想主義」であるのなら、あるいは多くの社会主義国家が「独立」や「革命」直後に経験したような現実と乖離したドグマに終わるなら、その行く末は明かです。またNGOの追い出しが単なる「鎖国主義」であるなら、その長期的な結末は今世紀にいくつかの国で行われた実験の結果から明かです。そして被害者はいつも民衆です。これからは「理想」が「現実」とどう折り合いをつけるのか、また「理想」はどれだけ「現実」を矯正できるのか、の段階に入ります。
 「自立」路線と「援助を可能な限り少なく」受けるという「理想」を支えるであろう、また阻害するであろう「現実」を検討することが、援助研究者としての私の関心です。独立後5年を経て、憲法も制定し、各分野のガイドラインもさまざまな外人ボランティアの助けを借りながらとにかく作り上げた(環境ガイドラインの松見靖子さん、刑法の土井香苗さんなどもその一端を担ったわけです)という実力は評価に値すると思います。そして一区切り付いたこの段階で、見事にNGOを「追い出し」て見せた、というところに自立にかける意気込み、「ややっ、本気だな」と思わせるなにかを感じることができます。

 ここしばらくはエリトリアの実験から目が離せません。


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