Asmara Letters



Subject: アスマラ便り9
Date: Thu, 17 Dec 1998 10:53:36 +0300
From: 佐藤 寛
To:  宇田川学

「多民族・多言語・多宗教国家」

 昨年(1997年)10月に発効したエリトリアの憲法では、民族・宗教をベースにする政党・政治活動は禁じられているそうです。それは、民族と宗教の多様性がこの国の一つのアキレス腱になりかねないからでしょう。「アフリカの例外」的なエリトリアですが、この点はやはり典型的なアフリカの国家です。

 エリトリアには大きく分けて九つの民族・言語集団があるとされており、そのそれぞれの文化的アイデンティティーを保護する政策を政府は打ち出しています。九つとはティグリニア、ティグレ、アファール、ビレン、ヘダレブ、クナマ、ナラ、ラシャイダ、サホで、それぞれが異なる言語を母語としています。驚くべき事に、EPLF(エリトリア民族解放戦線)は、エチオピアとの独立闘争中から支配地域を適切に統治して民衆の心をつかむために、各民族集団の伝統や慣習についての人類学的と言っていいような調査を蓄積していました。その成果は今でも「地方自治省」の地方政策に生かされているのですが、このことをとってもEPLFが戦闘中からドグマや力で人民を支配するただのゲリラではなく、極めて長期的な視野をもった「政府」を目指していたことがわかります。
 宗教は大きくキリスト教とイスラム教が人口を二分していますが、キリスト教ではコプト正教、ローマ・カトリックが主ですがプロテスタント等の諸派もいるようです。首都アスマラを含む中央高原地帯はキリスト教のティグリニア集団の居住地域で、言語はギース文字(エチオピアのアムハリックと同じ)を用いるティグリニア語です。エチオピアとの国境をはさんで向こう側にも同民族が存在しています(実はこれが今回の国境紛争の引き金になるのですが)。紅海沿岸部、並びにスーダン国境に連なる西部低地はイスラム教徒が優勢で言葉はアラビア語が通じやすいようです(ティグレ語はかなりアラビア語に近い印象を受けます)。紅海沿岸部は対岸のアラビア半島との行き来が多いことからアラブ系の顔立ちの人も目立ちます。クナマはいわゆる「アフリカ黒人」の特徴をかなり色濃く備えています。

 こうした背景を踏まえて、独立後政府はユニークな教育言語政策を採用しています。義務教育は小学校5年、中学校(Junior Secondary)2年からなりますが、小学校はそれぞれの地域の母語で教育して文化的なアイデンティティーを擁護し、中学校からは一転して全て英語による教育を行うことにしたのです。これは高校(Senior Secondary)4年、大学まで続きます。この背景にはエチオピア時代にアムハラ語を強制された苦い経験があり、人口では優勢のティグリニア語を用いることも、他の言語集団からの反発を招きかねないとの判断があったのでしょう。そこで「中立的」かつ「高等教育の際にも教科書が入手しやすい」英語を教育言語に選んだのです(元宗主国のイタリア語が選ばれなかったのは、イタリア人には面白くないでしょうが)。このあたりがまた、EPLFがただの「民族主義者」ではないところですね。
 ただ、こうした多言語教育はエリトリアのような貧しい小国にとってはかなりの負担になります。まず第一にティグリニア語やアラビア語(ラシャイダ集団の母語になっています)等では容易に教師や教科書を見いだせますが、それ以外の言語については文字が確定していない場合もあり(EPLFは闘争中から、文字を持たなかった六つの集団の言語をラテンアルファベット化する努力を続けていました)、さらに教師となる人材も不足しています。この育成に政府は相当な時間と資金を投じなければなりません。なおイスラム教徒であるアファールの一部には母語のアファール語ではなくアラビア語での小学校教育を望む人もいるということで、この点は「コミュニティーの選んだ言語」で教えるということになっているそうです。さらに、中学以上を英語で教えるとなると、英語ができないと教師が務まらないことになりますから、エチオピア時代からの教師は使いものにならなくなってしまいます。独立戦争終了時の小学校就学率は1991年度に就学児人口の22.4%だったものが1996年度には28.8%(136,943人)と着実に上昇しており(教育省発効Essential Education Indicators 1996/97 table14)、これは自動的に数年後の中高教育への需要増となって跳ね返ります。このために現在アメリカのピースコー、イギリスのVSO(ボランタリーサービスオーバーシーズ)から多くのボランティアが来て中高レベルの教師をしているということです。ただし、「これはエリトリア人の教師が育つまでの緊急措置」と付け加えることを教育省の役人は忘れませんが。また、UNDPも高等教育支援のために「英語のできる」インド人教師を160人投入しているのですが、アスマラ大学の学生の間では「インド人の英語が分からない」という不満がある、という笑いごとではない、でも笑っちゃう話もあります。

 教育以外の面でも多言語に配慮が必要です。ラジオはティグリニア、アラビア、ティグレ、サホ、クナマ、アファールの6言語が入れ替わり登場します。国営新聞は英語(Eritra Profile)、ティグリニア語、アラビア語の3バージョンがあり、いずれもほぼ同じ内容が報じられています(おそらく発行部数にはかなりの差があると考えられますが)。またテレビ放送(毎日午後6時半頃から11時頃まで)でも外国から買った番組は英語、ニュースはアラビア語(午後7時)とティグリニア語(午後8時)と3言語を取り混ぜて放映していますし、省庁の看板も必ず3言語が並記されています。しかし、アスマラにいる限りティグリニア語の優勢は圧倒的で、アラビア語しか話せない私は店の看板を読むのにも苦労し、肩身の狭い思いをします(ただ、アスマラに住んでいる人ははたいてい片言程度の英語・アラビア語は話せるし、アラビア語を日常使っている人もいますから何とか生きていけるのですが)。現在政府は「公用語」を定めておらず、「常用言語」としてティグリニアとアラビア語を指定していますが、これだけティグレニア語が優勢だと、将来的にはティグリニア語の「標準語化」が起きてしまうのかも知れません。
 さて、この夏アスマラの「国際展示会場(EXPO)」で「ナショナルフェスティバル」という催しが大々的に行われました。これは六つある州(Zoba)を単位としてそれぞれの民族的・文化的特徴を生かしたパビリオンを建て、来客に様々な文化を紹介するというものだったようです。これには二つの目的があったと思われます、一つはエリトリア国民に自分の所属集団以外の文化・伝統についての理解を深めさせ、「多民族国家」としての認識を育成すること、そしてもう一つは(これがとってもユニークだと思うのですが)海外にいるエリトリア人(100万人以上が独立戦争時代から「海外四散(Diaspora)」状態にあって、彼らからの送金がEPLFの重要な闘争資金源になっていました)子弟に、自分たちの出身民族の文化・習慣についての知識を与えること、です。このために海外エリトリア人がやって来やすい夏休みを選んだのかも知れません。8月29日から9月6日までの会期に約50万人の来客(Eritrea Profile紙98/9/12)があったというのですが、この国の居住人口は250万から300万といわれていますので、その規模の大きさがわかりますね。

 このように政府が「多民族・多言語」の保護にこだわるのは、国民のアイデンティティーのよりどころとしての文化・伝統の重要性を理解しているからでもありますが、今一つは国の根幹に関わる微妙な問題を、特にイスラム教徒がはらんでいるからだと思われます。
 もともとエチオピアからの独立を目指した闘争はイスラム教徒中心のエリトリア解放戦線(ELF)が開始し、ここからキリスト教徒を中心とするEPLFが分離し、後にEPLFがイスラム教徒をも含む形で主導権を握って独立にこぎ着けた経緯があります。従って現政権(EPLFを母体として発展したPFDJ=民主公正人民戦線)にはイスラム教徒も含まれているのですが、イスラム教徒の一部には周辺のアラブ諸国(特にサウジ、スーダンなど)からの支援を受けて現在とは違った形のエリトリアを模索している人々もいるようです。このため、スーダン国内には独立後もまだ帰国せずに「難民」状態を維持しているエリトリア人が数十万人いると言われています。現在のスーダンのバシーリー政権はイスラム教徒を母体とする「エリトリア・ジハード運動」に支援を与えており、逆にエリトリアはスーダンの現政権に反対する勢力を支援するなどしているため、1995年以来両国は国交断絶状態にあります。時にはスーダンからのエリトリア国境地帯への空爆もあるようです。今回、アスマラの東北方向にあるコーヒー畑を見に行ったのですが、目的地(アスマラから車で三時間くらい、高度2000m程度の段々畑です)の少し手前に検問所があって、「この先で時々ジハードが出ることがあるから」という理由で兵隊さんが護衛のために車に乗り込んできました。もちろん何事もありませんでしたが、ティグリニア人優勢のアスマラにいると「国民一体となって建国の熱気に溢れている」という印象を得るばかりですが、もちろん今の政権に満足していない人はいるわけです。95年にムバラク・エジプト大統領がアジスアベバを訪問した際にスーダン人による暗殺未遂があったことは有名ですが、実は昨年アスマラでもスーダン政権によると思われるイサイアス大統領暗殺未遂事件があったのです。爾来、それまでは庶民の中を自由に歩き回っていた大統領も、警備の人々の要請でそうした行動を控えるようになったということです(イサイアス大統領自身はティグリニアのキリスト教集団に属します)。
 どんな政権も盤石と言うことはありません。どんなに優れた指導者でも国民の100%から支持されるということは困難です。現在のエリトリアはイサイアス大統領の強力な指導力(それはいわゆる「独裁」とは少し違いますが)のもとに多民族・多言語・他宗教・稀少な資源・不安定な周辺国との関係という「アフリカ性」に溢れる条件の中にありまがら、開発の着実な進展という「非アフリカ的」なパフォーマンスを示しています。今、エチオピアとの国境紛争という事態を迎えて、必ずしも現政権に満足していない人々も「この危機を乗り切るためには大統領に協力する」と表明していますから、当面国内対立が深刻な問題になる気遣いはありませんが、潜在的には問題は常に存在し続けています。

 途上国の「開発」の困難さは、どんなに優れた開発戦略を有していても、偶発する政治的環境の前にはそれが吹き飛んでしまいがちだということです。エリトリアの実験は「開発」「国家づくり」によって逆に「政治」を封じ込めてしまおう、という試みであるとも言えるでしょう。


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Last updated 3.Jan.1999