Asmara Letters



Subject: アスマラ便り10
Date: Sat, 19 Dec 1998 20:33:44 +0300
From: 佐藤 寛
To:  宇田川学

「規律と道徳」

 「開発援助」をする場合に、相手側政府に「規律がない」、現地人社会に「(不正や汚職を抑止する)道徳心がない」という不平はよく「専門家」や「ボランティア」から聞かれます。これはアフリカに限らず、中東、南アジアや東南アジアでも共通です。また「交通道徳が悪い」というのも途上国に駐在している外人(この場合は特に先進国の出身者を意味しますが)の好んで用いる「現地人けなしネタ」です。

 アスマラの目抜き通りはイタリア時代に作られた片側三車線、両側の歩道にはヤシの巨木が一直線に並ぶ立派な道ですが、信号はほとんどありません。イエメンでこんな大きな道があれば(そんなに混んではいないので)車は時速100km/h近いスピードで走りますし、エジプトでは(めちゃめちゃ混んでますから)片側二車線の道でもわたるのは決死の覚悟が必要で、ちょっとでも気を許せば車に引っかけられてしまいます。いずれにしても気合いが必要なわけです。アスマラにはあまり車は多くありませんし、一般に古い車も多いので(この間乗ったタクシーは1954年型のフィアットでした!)、そんなに飛ばす車はいませんがとにかく道路をわたるときには注意が必要であることには変わりありますまい。前回アスマラを訪問したとき、教育省からこの目抜き通りをはさんだ向かいのエリトリア観光公社に行こうとしていた私は、全身を集中力の固まりにして歩道の脇に立ちました。左から(エリトリアは右側通行です)三台ほどの車が近づいていたので、これをやり過ごしてからわたろうと構えていたのです。ところがその三台の車は次々に減速し、私の手前で止まるではありませんか。私は一瞬何が起こったのかわかりませんでした。よく見ると私の立っていたのは信号こそありませんが横断歩道なのでした。つまり「横断歩道に人が立ってれば車は止まる」くというルールが、この国では存在し、かつ生きているのです。半信半疑で私は道路をわたり始めました。すると私が歩いているのを見た右側からの車も次々に止まるではありませんか。小走りになりたがる自分の足を制して、ことさらゆっくりとこの横断をかみしめつつ反対側の歩道に着いた私は「へえーっ」と感心してしまったのです。こんな国が、こんな首都があるんだ、と。
 アスマラではイタリア時代の都市計画がきっちりしていたので、目抜き通り以外の道も片側二車線の幅がたっぷり取ってあり、歩道も街路樹も整っています。今のところここを走るのはタクシー、荷馬車(大八車を一頭の馬が引くもの)そして時折バス程度です。ほとんど車の交通量はないのですが、こうした道でも車は交差点(もちろん信号はありません)で徐行します。それも止まらんばかりにゆっくりと。仮に歩行者がいれば、7〜8割方は車が道を譲ります。なんなのでしょう。これは。
 イタリアの植民地教育の成果でしょうか。それとも30年間のゲリラ活動の中で培われた規律心でしょうか。それとも、エリトリア人がもって生まれた道徳心なのでしょうか。
 道に、ゴミもほとんど落ちていません。イエメンでよく見かける(よろず屋で買い物をすると入れてくれる)あの薄っぺらいビニール袋もミネラルウォーターのプラスチックボトルも散乱していません(ここではミネラルウォーターはガラス瓶のガス入りがほとんどですが、ビニール袋はたくさん使っています)。いつも掃除のおばさんがほうきを片手に掃除していますが、そもそもゴミを道ばたに捨てる人がいないのです。
 地方都市に向かう幹線道路で、建設用の土砂を運ぶ大型トラックの荷台に「すりきり」しか土砂が積まれていないのも驚きです。日本でだって「過積載」は日常茶飯です。なのに、この国では(おそらく積載限度よりも少ない)「すりきり」なのです。また、長距離バスも「アフリカ」というと人や荷物が鈴なりになる光景を思い浮かべますが、立っている人がいないのはもちろんのこと荷物も屋根中央の決まったところにしか載ってないのです。私が地方に出たのはキリスト教の祝祭日「マスカラム」の前日の土曜日でしたから、比較的乗客は多かったはずです。もちろん、これにはエリトリア固有の事情というのもあるでしょう。例えば過積載の禁止は、なけなしの既存道路の消耗を怖れてのこととか、バスが「鈴なり」ではないのはこの国の人口がまだ少ないからとか。それにしても一回の輸送でできる限り多くを運びたいというのも自然な欲求で、それを抑えてまで決まりは決まり、だから守るという姿勢は途上国に希有のものではないでしょうか。

これをエリトリア人の「生来の気質」「民族性」とするのも一つの解釈です。ただ、この国の九つの言語集団が同じような「民族性」を一様に持っているというのも、少し苦しい解釈です。一方、主力集団のティグレニアの民族性の影響と考えることもできますが、現在のエチオピアの政権勢力もティグレニアであることを考えると、それだけでは説明できないような気もします。これを歴史が作り上げた「国民性」と解釈するのはどうでしょうか。
 日本語で書かれたほぼ唯一のエリトリアに関する書物は、故伊藤正孝氏のルポルタージュ『アフリカ 二つの革命』(朝日選書221)です。彼は1978,79,80年の三回にわたってに闘争中のEPLFの解放区を訪問し、その戦闘とゲリラの様子を描いています。その中で彼が驚いているのはゲリラ組織としてのEPLFの極端なまでの「禁欲主義」です。78年に伊藤氏がEPLFの食糧輸送トラックに乗ってスーダンから解放地域に向かう時に彼が、若いゲリラと交わした会話の様子はこんな風に記されています。

 明日死ぬかもわからない(それゆえ規律の重要さは身に浸みるであろう)戦場の中でこうした話を聞かされた伊藤氏自身さえ、それが実践されているとはにわかには信じられなかったのですから、われわれが現在こうした話を「理想論」「教条主義の建前」ではなかったかと疑いたくなるのも無理はありません。ただ、一つ確かなことはこうした「信じられないような」規律を打ち出し、そしてそれをエリトリアの人々、とりわけゲリラ達が守ったからこそ、誰にとっても「不可能」と考えられていた独立を勝ち取ることができたのだろう、ということです。
 こうした「美風」がいつまで続くのかはわかりません。でも、横断歩道の前に人が立つと車が止まる、というのもその場にいなければなかなか信じがたい話ではないでしょうか。

 エリトリア。不可能を可能にする人々がいる国、なのかもしれません。


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