Asmara Letters



Subject: アスマラ便り11
Date: Tue, 22 Dec 1998 19:40:22 +0300
From: 佐藤 寛
To:  宇田川学

「5年間のモラトリアム」

 今回のエチオピアとの国境紛争をどう理解するか、という問題は今しばらく時間の経過を見なければ判断出来ません。もちろん、今回の紛争はエチオピア、エリトリアの両国民いずれにとっても何の役もないことは明かです。ここから先は、あくまでもエリトリア・バージョンの情報に基づいての判断だというとはご承知おき下さい。

 今回の紛争をおこさなければならない理由はエリトリア側にはあまり見あたりません。むしろ、エチオピアの現TPLF(ティグレ人民解放戦線)政権の側に、エリトリアに対する「強硬姿勢」を見せなければ国内の諸勢力からの支持を維持することが困難という事情は見え隠れします。今回の事件の発端はエチオピアのティグリニア地区から始まっており、いわゆるエチオピアの「領土拡大地図」もティグレイ州政府が発行しているところから、ティグレイ州政府とエリトリア側の地域司令官の双方が、ともにアスマラ、アジスアベバの中央政府の意向とは別に「暴走」した結果この事件が発生したとの見方もあります。ただ、現在のエチオピアの関心は戦闘の始まったバドメ地域よりもむしろ、かねて虎視眈々とねらっている紅海の重要港アッサブにあるようです。少なくともそうしたポーズを取ることで、アジスの現政権は、この紛争を単に両国にまたがる「ティグリニア」民族の内輪もめとしてではなく、エチオピアの国益に関わる問題、として国民に訴えることができるわけです。エチオピア国内のティグリニア人口は約400万ということで、エリトリアの全人口を併せたよりも多いですが、6000万人ともいわれるエチオピアの中では「少数民族」にすぎません。ハイレセラシエ皇帝時代からメンギスツ社会主義政権まで一貫してエチオピアの政治をになってきたアムハラ族はもとより、これまた一貫して分離独立を模索しているオモロ族よりも数の上では少ないのです。にもかかわらずこの「少数民族」が政権を奪取した背景には、1991年のメンギスツ政権打倒にあたってTPLFの「兄弟組織」としてのEPLFの支援があったからだといわれています。
 EPLFにとっては、「気心の知れた」TPLFがエチオピアの政権を取ることは願ってもないことでした。それは、封建王国政治を打倒して社会主義政権に変わっても、アムハラ族が主体のエチオピア政府である限り、対エリトリア政策は「分離の阻止」で一貫していたからです。それでもハイレセラシエ打倒後エリトリアはすぐに独立したわけではありません。実際にはEPLFがエリトリアの実権を握っていましたがそれは「解放地域」時代から引き続きそうであったのです。正式の手続きとしては1993年の4月にエリトリア国内にいる人はもとよりエチオピアをはじめ世界各国にいる在外エリトリア人による「独立をするか否か」の国民投票を実施し、99.81%の支持をうけて5月24日(91年の同日EPLFがアスマラを奪取)に正式に独立国家となったのです。こうした一連の過程に時間をかけ、「民主的」な手続きで独立にこぎ着けられたのも、この間エチオピアからの妨害が一切なかったのではじめて可能になったのです。それもエチオピアの政権がTPLF主体の政権だったからです(独立式典にはエチオピアのゼナウィ首相もアスマラに駆けつけたということです)。
 そして独立以来5年、エリトリアは時間をかけて国の基礎づくりを行ってきました。昨97年はその国造りの一段落を示す二つのことがありました。一つは憲法の発布です。これは独立以来「制憲委員会」を創設し、国際的にも「住民参加型」といわれる議論を尽くして発布したものです。そしてもう一つは独自通貨ナクファの創設です。この意味で、97年末までにエリトリアは国造りの第一段階を終えた、と言っていいのでしょう。独立後相次いで手を差し伸べてくれた欧米NGOが昨年末以降撤退していったのも、この意味では偶然のタイミングではありません。

 この5年間、エチオピアはエリトリアの国づくりに一切邪魔だてしませんでした。自前の飛行機会社を持たないエリトリアに代わってエチオピア航空はアスマラと海外を結ぶ路線を維持してくれました。もちろんエリトリアも海を失ったエチオピアがアッサブ港を従来通り使えるよう便宜をはかってきたのです。
 しかし、アムハラ族の間にはいまだにエリトリアの分離を心情的に認められない人も多いということですし、またオモロなど他の民族にしてみれば「なぜエリトリアだけ独立が認められて我々には認められないのだ」という論拠にもなります。そうした意味で、また海を持たない内陸国と化してしまった現実からもエチオピアとエリトリアの蜜月は必ずしも永続的なものではないのです。このことは当初から明らかだったはずです。エチオピアの現政権がいつまで少数者による統治を維持できるかも不確定要素が多いでしょう。エリトリア側からすれば、せめて国の基礎づくりの間は、親エリトリア政権であって欲しかったというところでしょう。
 もちろん5年で国造りを終えたとは言えません。しかし、最も大切な(例えて言えば未熟児で生まれた赤ん坊が保育器に入っているような)時期は終えたと言って良いでしょう。また、エリトリアにエチオピアと戦争をする余裕や用意ができたというわけではもちろんありません。しかし少なくとも、エチオピアからの保護や好意なしでもやっていけるまでにはなっているのではないでしょうか。
 5年前にこの国に来て幹線道路沿いに山岳地を見たとき、かつてあった段々畑がかすかに痕跡を残してはいるものの、何も植えられておらず禿げ山になっていました。今回、別の地域ではありますが、段々畑に様々な穀物が緑豊かに実っており、かつての禿げ山にユーカリの植林を見ました。もちろん、比較の対象を持たないのでこれが「豊作」なのかどうか、今までこの畑がどんな様子だったかは分かりません。しかし、少なくとも大麦、小麦、ソルガム、メイズ等の穀物(わずかながらテフもあるようです)、落花生、トマト、ジャガイモ、オレンジ、グアバなどの野菜、果物が幹線道路に沿ってかなり密度濃く耕作されていることは事実です。そして戦争当時に比べればおそらくより数多くの牛、馬、ロバ、山羊、羊などが農村部で養われているのでしょう。過去5年、エチオピアから与えられたモラトリアムはこのように、有効に生かされたのです。

 もちろん、今回の紛争を意図的にエリトリアが仕組んだとは考えられません。何よりもそんな余裕はないし、モラトリアムは長い程良いのですから。そもそもエチオピア側は現在頻繁に「戦争の用意は整っている」と攻撃的な声明を繰り返していますが、エリトリア側は「戦闘もやむなし」というような声明は発していません。しかしこうなってしまったからは、エリトリアとしてはなにも無理な妥協(特に「植民地時代国境線の維持」の原則を放棄してまで)をする必然性はないのです。それどころか、今回の事件をエチオピアからの自立のための契機として活用することも可能です。
 やや乱暴な言い方をすれば、民主的に独立したとは言え未確定の国境は残されており、国境画定作業の一環として局部的な紛争も必要な場合があるでしょう。またエチオピア政府はアジスアベバにいるエリトリア人をこれまで二万人以上追放し、多くを拘束したり嫌がらせをしたりしていると言われています(同様に「アスマラにいるエチオピア人は拷問を受けている」という噂がアジスアベバでは流れているようですが、当地の外交筋によればそうした事実はないそうです)。エリトリア憲法は二重国籍を認めていますが、エチオピア憲法はそれを認めておらず、早晩「エリトリア人」と「エチオピア人」の線引きも必要なのです。もちろん、今回のエチオピア政府の措置の対象には50年以上もアジスに住んでおり、エチオピア人女性と結婚している人もいると言うことですので、そのプロセスではかなりの悲劇が生じるに違いありません。エリトリアのテレビでもエチオピアを追い出され、歩いて国境を越えてエリトリア側に帰還した多くの「帰還民」婦女子の様子が報じられています。しかし、こうした「強制送還」もまた「国民確定作業」の一環としていずれ必要な措置だったのかも知れません。
 くわえて、外交的な広報力の弱いエリトリアは、エチオピア側の流す「エリトリアは危険」と言う情報を打ち消すことができず、このため日本などのようにいまだに「退避勧告」を出し続けている国があるのです。これは外国との貿易・投資の振興を目指すエリトリアにとってはかなりの打撃です。しかし、今エリトリアは急いでいるようには思えません。エチオピア側の様々な言い立てに対しても「情報戦はしょせん事実の前には無力」という達観とも言える態度を見せています。
 これは勘ぐりすぎかもしれませんが、独立戦争を通して様々な危機を乗り切ってきた(1978年にエチオピア軍にソ連軍の支援が入ったことで主要都市から山岳部に「戦略的撤退」を強いられた事など)イサイアス大統領は、今回の危機もまた「自立に向けての試練」ととらえ、現在の受動的鎖国状態をむしろ積極的に活用するつもりであるように思えるのです。


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Last updated 3.Jan.1999