写真資料室

伊能忠敬史跡めぐり

「伊能忠敬出生の地」(千葉県山武郡九十九里町小関854番地)
伊能忠敬は1745年(延享2年)1月11日(旧暦)、上総国山辺郡小関村小関新田で小関貞恒・みねの三人兄弟の末っ子として生まれた。幼名小関三治郎。満6歳の時に母みねが死去、 入婿だった父貞恒は長男と長女を連れて実家神保家(現横芝町)に戻る。次男三治郎は満10歳の時に父の元に引き取られるまでここ九十九里の網元で名主でもあった小関家で育つ。 その場所は現在伊能忠敬記念公園となっており、公園には象限儀とともに天を指し示す伊能忠敬の銅像が立っている。

  伊能忠敬銅像 伊能忠敬先生出生之地碑 生誕250年記念切手


「伊能忠敬成長の地」(千葉県山武郡横芝町小堤72番地)
忠敬(幼名 三治郎)は1755年(宝暦5年)10歳のとき、小堤村に戻った父・神保貞恒のもとに引き取られる。神保家は戦国時代から続く旧家で名主を勤める名家であ った。神保家に幕府の役人が泊まったとき、計算に興味を示 、たちどころに覚えてしまったので役人が驚いたという逸話が伝わっている。以後、17歳で佐原の伊能家の婿養子になるまで父・貞恒、兄・貞詮、姉・房と四人で暮らした。 父・貞恒はその後新しい妻を迎え、神保家のすぐ近くの丘陵の麓(横芝町小堤44番地)に分家して村塾を開き、生涯そこで暮らした。

  伊能忠敬成長の処 父・神保貞恒生活の処


「伊能忠敬旧宅」(千葉県佐原市佐原イ1900番地)
三治郎は宝暦12年(1762年)満17歳のとき忠敬と改名、平山家の養子となり平山三治郎忠敬として佐原の旧家である伊能家の婿養子となる 。妻ミチはこのとき21歳、先夫との間に一子・忠孝があった。以後、忠敬は満49歳で家督を譲るまで家業の酒造業にはげむかたわら名主として村政に尽くした。 当時の佐原村は江戸との廻船で賑わう豊かな村であった。 伊能忠敬旧宅は町の中央を流れる小野川に沿った北向き街路のほぼ中央にあり、商家造りの瓦葺き平屋建。表の店舗と奥の母屋からなる。母屋は寛政5年(1793年)に建てられ、 忠敬書斎として今日まで大切に保存されてきた 。屋敷内の土蔵も含め国指定史跡に指定されている。小野川をはさんだ向かい側には 伊能忠敬記念館 がある。

  伊能忠敬旧宅 伊能忠敬記念館


「伊能忠敬の銅像」(千葉県佐原市諏訪下 諏訪公園内)
 宝暦12年(1762年)伊能家に婿入りした忠敬は、以後33年間の佐原時代、家業の酒造業、米の売買、金貸業、川船運送等家業に精を出し、佐原で一、二を争う資産家となった。また名主、村方後見として村政に尽力し、36歳の若さで佐原村本宿の名主となり、天明年間の3度に及ぶ降灰や洪水による飢饉には米や銭を出して窮民を救った。村人の忠敬への人望はあつく、その功績によって領主より名字帯刀を許され、また「三人扶持」が与えられた。佐原市の諏訪公園には測量器具「彎か羅針」の目盛を読む姿をかたどった忠敬の銅像が立っている

  伊能忠敬銅像 佐原の町並小野川


  「忠敬江戸隠居宅跡」(東京都江東区門前仲町1丁目18−3先)
 寛政6年(1794年)満49歳で家督を長男景敬にゆずり隠居して名を勘解由と改めた忠敬は、翌年江戸へ出て深川黒江町に隠宅を定めた。そして浅草竹町(台東区浅草橋3丁目19〜26番)にあった天文方の暦局に勤めていた高橋至時の門下に入り、西洋天文学・数学・観測術・暦学の勉強を始める。隠宅の一隅には私設の天文台を設け、特注の天体観測器具を設置して食事をとるのも忘れて天体の観測にあたった。この観測所で忠敬は、寛政9年10月4日、我が国で初めての白昼における金星の南中観測という快挙を成し遂げた。また、忠敬は緯度1度の距離をはかるため、黒江町の隠宅から浅草の暦局までの道のりを歩測し緯度1度の距離を試算したが、歩測の距離が短すぎることを師高橋至時に指摘され、より長い距離の歩測を願った。これが後年の全国測量へのきっかけとなったと言われる。深川には多くの干鰯場があり総州とは縁の深い所である。干鰯は当時の重要な肥料であり、銚子沖でとれた鰯は利根川を通って江戸に運ばれたからである。忠敬も神田鎌倉河岸に干鰯を商う江戸店を構えていた。忠敬の隠宅があった場所には現在標柱が建てられている。

  伊能忠敬隠宅跡 干鰯場跡


  「浅草天文台跡」(東京都台東区浅草橋三丁目19〜26付近)
 浅草天文台は当時江戸にあった幕府の公設天文台の一つであり、司天台、また暦の作成・頒布を行っていたので暦局、頒暦御用役所、頒暦屋敷などとも称された。当時の天文台は暦を作るための天体観測を行う天文台で、造暦が終了すると天文台は廃止されるのが普通であった。造暦が終わっても残り、幕末まで設置されたのは浅草の天文台だけである。天明2年(1782)10月、牛込から浅草に移され、小高い築山の上に観測所が設けられた。その場所は鳥越神社にほど近い現在の台東区浅草橋3丁目にあたり、江戸通りと蔵前橋通りの交差点角には「浅草天文台跡」の表示板が立っている。ここには幕府の翻訳局も置かれ、当時の学術研究の中心として最新情報が入ってくる名物役所であったが、幕府の崩壊と共に明治2年(1869)4月に廃止された。天文台が廃止された後もこの付近は「天文が原」と呼ばれた。

  天文台跡(現在) 説明板


   「富岡八幡宮」東京都江東区富岡1丁目20
 忠敬は理数に明るく、当時としては進歩的な合理主義的な考え方の持ち主であったが、その一方で厚い信仰心を持っていた。測量の旅に旅立つ日は必ず隊員一同と深川の富岡八幡宮に参拝し、旅の安全と測量任務の完遂を祈願してから出発した。また、旅先でも多くの神社仏閣に参詣し、別当などに挨拶し、測量への協力を依頼した。忠敬の第一次蝦夷測量をはじめとし以後十次にわたる測量の旅の出発地は全国各地に及んだが、その出発地は常にここ富岡八幡宮だったのである。富岡八幡宮境内には2001年10月、伊能測量開始200年を記念して、測量の旅への一歩を踏み出した姿を表した忠敬の銅像が建てられた。

  富岡八幡宮 伊能忠敬銅像


  「高輪大木戸跡」(東京都港区高輪2−19)
 高輪大木戸は徳川幕府が宝永7年(1710)東海道の左右に石塁を築き木戸を設けたものである。この木戸は江戸の重要な入り口として規模も大きく、往来の客はここで旅装を改めまた江戸の送迎者もこの木入口までとされていた。伊能忠敬は東海道筋の測量に際してここを便宜上の基点とした。旧説明板には「また享和年間(1801年−1803年)伊能忠敬が全国を測量した際、ここを基点としたため測量史上貴重な遺跡となっている。」と記されていた。木戸は明治維新後廃止され、現在は片側だけ残されているがこの場所は第一京浜国道の交通量の最も多い地点であり、道路拡張のあおりで取り残されたようにわずかな石垣の名残が片隅に保存されているばかりである。

 高輪大木戸跡 説明板


「伊能測量隊の足跡」


測量の際に携行した御用旗(伊能忠敬記念館蔵)

伊能忠敬は第一次測量から第十次測量まで、実に17年に及ぶ年月をかけて日本全国の海岸線を歩き回り、日本初の実測日本地図を作製した。現在、全国各地に伊能測量の足跡を記念した記念碑が数多く建てられている。
第1次測量
第2次測量
第3次測量
第4次測量
第5次測量
第6次測量
第7次測量
第8次測量
第9次測量
第10次測量(江戸府内測量)


   「陸奥州気仙郡唐丹村測量之碑」と「星座石」岩手県釜石市唐丹町大曽根237−1
 三陸海岸の小高い丘に残る「陸奥州気仙郡唐丹村測量之碑」は江戸時代に建てられた伊能忠敬の顕彰碑として唯一のものである。伊能測量隊は享和元年(1801)9月24日南部藩との境界にあたる伊達藩唐丹村で実地測量をした。地元の学者葛西昌丕(まさひろ)当時49歳は忠敬の学識と偉業に感銘をうけ、13年後の文化11年に「測量之碑」を建てた。忠敬69歳で存命中のことであった。碑にはこの地の緯度(39度12分)や唐丹測量を記念する文言が記されているほか、「地球の微動あらざらんか」という謎めいた言葉が刻まれている。これは西洋の天文学から「地球の微動」を知った昌丕がその解明を後世の人に託したものではないかと考えられている。また傍らには「星座石」と呼ばれる40センチほどの平たい石がある。星座石は、中心に円が描かれ、円の中には「北極出地三十九度十二分」、円の周囲には十二宮と十二次が交互に配列されているが、この星座石の意味はまだ解明されていない。「地球の微動あらざらんか」の言葉とともに当時の科学者の真理探究の情熱を伝える貴重なものである。
 

 
 「陸奥州気仙郡唐丹村測量之碑」 星座石案内標石「地球の微動あらざらんか」


  「忠敬最終測量地」(東京都中央区八丁堀交差点付近)
 第9次測量が出発する2か月前の文化12年2月、70歳の忠敬は4人の隊員らを率いて江戸市中の測量を行った。2月3日から19日までの17日間をかけ新宿ー日本橋、品川ー日本橋、板橋ー日本橋間と、街道の出発地相互間を測った。これまでの全国測量の起点は各街道の大木戸であり、その内側は空白域として残されていたのである。当時は江戸市中を測ることは御法度だったので、この測量は画期的なできごとであった。江戸市中の測量は翌年も大規模に行われたが、忠敬が実際に測量に携わったのは、この第一次江戸府内測量が最後となった。最終日の測量日記には「二月十九日、曇晴。葛飾郡深川相川町三辻、当月十一日残し、相印初め、海辺測量。(略)四ツ半時頃帰宿。江戸測量終る」とある。この測量に基づいて翌文化13年「江戸府内図」が作成され、忠敬最後の作品となった。

  八丁堀交差点 江戸府内図


  「地図御用所跡」(東京都中央区日本橋茅場町2−12付近)
 忠敬は第8次測量から帰ると隠宅を黒江町から八丁堀亀島町に移し、ここを地図御用所として最終図の制作にとりかかったが、完成をみることなく文政元年(1818年)4月13日没した。地図が未完成であったため喪は伏せられ、死去から3年後の文政4年(1821年)9月4日になって公表された。死去した場所は正確には亀島町ではなく、北町奉行与力・藤田六郎左衛門の八丁堀の役宅であったと言われている。地図御用所があった場所は現在ビルが建っており、新国際通りをはさんだ向かい側の歩道の植え込みの中に「伊能忠敬邸跡」の説明板がある。「伊能忠敬(1745〜1818)地理学者。・・(中略)・・51歳の時隠居し江戸に上り天文学者高橋至時の弟子となり測地、暦法を学んだ。3,737日に亘り35,500kmを踏破、1,200地点を測量して「大日本沿海輿地図」を作成した。71歳の時、当時の亀島町に移り此の地にて逝去した。」

  地図御用所跡 説明板


  忠敬墓所1「源空寺」(台東区東上野6丁目)
   隠居後50歳で江戸に出た忠敬はのちに幕府天文方となった高橋至時の門下に入り、西洋天文学・数学・観測術・暦学の勉強を始める。師の高橋至時は忠敬より19歳若い31歳であった。忠敬は文政元年(1818年)4月13日に江戸八丁堀で死去したが、地図が未完成であったため喪は伏せられ、地図が完成した文政4年9月4日になって公表された。享年74歳。遺骸はその遺志に従って浅草の源空寺にある師・高橋至時の墓の隣に葬られた。いまも源空寺には「東岡高橋君墓」(左)と「東河伊能先生墓」(右)は並んで立っている。なお、墓碑銘は生前親交のあった儒学者佐藤一斎による。忠敬の墓所は「源空寺」を含め3か所ある。

  高橋至時墓 伊能忠敬墓


  忠敬墓所2「観福寺」 (千葉県佐原市牧野)
 佐原にある真言宗豊山派・観福寺は北総の名刹であり、伊能家代々の菩提寺である。境内の伊能家墓所には忠敬、妻ミチ、および子孫、また親戚に当たる国文学者・楫取魚彦、伊能頴則ら一族の墓がある。ここ観福寺の墓には忠敬の戒名「有功院成裕種徳居士」が刻まれ、遺髪と爪が埋葬されている。

  伊能家墓所 伊能忠敬墓


  忠敬墓所3「日本寺」(千葉県香取郡多古町南中)
 忠敬の墓は多古町・正東山日本寺の平山藤右衛門家墓地内にもある。平山家は忠敬の父の生家神保家の親類にあたると同時に、忠敬の最初の妻ミチの母の生家でもある。忠敬は伊能家との縁組にあたり一旦平山家の養子となったうえで伊能家に婿入りした。一方ミチは家の事情で13歳まで母と共に平山家で暮らし、その後伊能家に戻ったといわれている。両家に縁の深い平山家の墓所には忠敬・ミチ夫妻の墓がある。

  平山家墓所 忠敬・ミチ墓


  「伊能忠敬測地遺功表」(東京都港区芝公園内)
 東京都港区にある芝公園の丸山古墳の上に日本列島を象った石造りの「伊能忠敬測地遺功表」がある。これは伊能忠敬の功績を後世まで伝えようと東京地学協会によって昭和40年5月建立されたものである。この遺功表は、明治22年にやはり東京地学協会によって建立された旧遺功表が太平洋戦争中の金属回収政策により昭和19年に撤収されたため、戦後に新たなデザインで再建したものである。旧遺功表は青銅製オベリスク型で、戦前における芝公園の名所の一つであった。

  測地遺功表旧測地遺功表(保柳睦美「伊能忠敬の科学的業績」より)


    伊能忠敬と「教科書」
教科書に忠敬が登場したのは明治36年発行の「高等小学読本」と、明治43年から使用された「尋常小学修身」である。いずれも「勤勉」「師を敬え」など、皇国民育成のために登場した。戦後の教育では社会科と道徳で、忠敬の働きを江戸時代後期の新しい医学・暦学など学問の興隆と関連させたり、また「創意・進取な態度の育成」などをねらいとしている。

 
「高等小学読本」(江戸東京博物館蔵)伊能忠敬先生坐像


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