江戸時代の各地の千手氏

高鍋千手氏
細川家中千手氏
肥前千手(千住)氏
小城千手氏
福岡千手氏
金田千手氏

江戸時代〜近現代

高鍋千手氏

元和七年(1621) 卯月分限帳に、二十五石 千手帯刀、拾三石 千手若(?)右衛
、拾石 千手孫兵衛。(「藩史備考 弐」)

寛永二十年(1641) 十一月、分限帳に、弐拾五石 千手治右衛門、弐拾五石 千手
八郎兵衛。(「藩史備考 弐」)

万治元年(1658) 「分限帳には、百石取りで千手治右衛門、六十石取りで千手又
、十五石取りで千手儀兵衛の名が記されています」(「嘉穂町議会だより」)


元禄二年(1689)  「千手次郎兵衛が町奉行として奉職しています。同年、火消し奉行
として千手九兵衛が任命されています」(「嘉穂町議会だより」)(注、治右衛門の子で、
千手次郎兵衛良則という。七代の末裔が、明治期高鍋町長を勤めた千手文一郎という)

安永六年(1777)  千手興欽(おきかね)の建学の進言を受け、「明倫堂」という藩校が
設けられる。「江戸期も後半に至り、千手興欽という人物が登場します。本来百石の上
級武士であったが、父親の代で家禄が減給、十五石がさらに半減されたようです。貧困
の中学問で身を起こし、朱子学者として藩主に仕えました」「興欽は、千手家の歴史をま
とめた興欽録をつくっていました。残念ながら興欽録は残っていないようです」(「嘉穂町
議会だより」)

戻る

 


細川家中千手氏

元和九年(1623) 御鉄砲頭、四百石 千寿新左衛門、弐拾挺頭。留守居組 従是已
下 百石 千寿助六。(細川藩「御侍帳并軽輩末々共ニ」(豊前小倉))

寛永頃(1624〜1643) 四百石 千手新左衛門 新二丁目 四郎兵衛。外様御鉄砲
 一、千寿新左衛門組 弐十人。(「肥後御入国宿割帳」)

戻る


肥前千手(千住)氏

戻る


小城千手氏

元和三年(1617) 小城藩初代鍋島元茂が慶長十九年以来四年ぶりに佐賀に帰ったと
き、直茂の側臣より分け与えられたものとされる「八十三士一覧表」に、「千手六之允 
千手権之允跡目 筑後衆」とある。なお説明として、「これらの家臣の中には元来は筑
後の小豪族であったものが龍造寺隆信の筑後経営後、柳川城にあって前進地経営にあ
たっていた鍋島直茂に服属し、鍋島家臣団にはいったものが目立っている」とある。

A 千手六之允喜雲
(イ) 「草履取り角蔵 千手六之允喜雲は、筑後の千手氏で、父は千手権之允という。喜雲に鍋島姓が許されたのは、石井孫四郎の嫡子(千手)五郎左衛門正久を養子に迎えてからである。喜雲と養子正久は、鍋島一門外で鍋島姓を許された二十家の一人である。また正久は中野将監の妹婿になる。喜雲は日ごろ草履取り角蔵と称されて、人並み外れた力量の持ち主である。また喜雲には一流の剣術芸があり、これを角蔵流と世間では呼んでいた。実用的な技法で、方々で喜雲に弟子入りする若者が多く、そのため各地に出稽古に招かれるほど繁盛していた。この角蔵流という特技は、自己流の組み討ちに、柔術を組み合わせたもので、敵が不意に襲ってきたとき、即座に相手を張り倒して組み伏せる。藩士の間では、げす流であると蔑まれて、通称草履取り角蔵と呼んでいた・・・承応三年(1654)正久の子で(千手)外記時英の代に、鍋島姓を遠慮して元の千手姓に戻った」(「佐賀の江戸人名志」)
(ロ) 「葉隠」(岩波文庫)の、中巻p.142に、御一門の外、御名字差し召され候人数として、千手氏 鍋島六之允入道喜雲。同五郎左衛門が見える。
(イ) 元禄頃(1700年前後)
@ (紀伊守元武時代)小城着到に、千手外記(物成二百十三石、民部組)、千手孫八(三人扶持、五石四斗、大蔵組)が見える(「佐賀藩着到帳集成」)。


十九世紀前半頃(1800〜1850頃) 小城藩主九代、十代頃の史料である「小城着到」
に、「平士 米六人扶持 築切古賀 千手弥三郎」とある。

佐賀市兵庫町瓦町に千住集落があり、佐賀県には全国四百軒ほどの千住氏のうち、百四十軒(うち九十軒が佐賀市内)があるが、古文書によれば全く違う系統のようである。しかし念のため調査結果を以下に記しておく。九州大学には千住氏文書があるという。なお、ヴァイオリンで著名な真理子さんなど芸術家一家として著名な千住家と佐賀千住家との関連は分からないが、慶応義塾進学者がいることや、下記の「千住家は現存し、本家の裔は芸術家として立たんと奮闘中」との記述は興味深い。
@ 治承三年(1179)
平家時代の肥前は、平清盛の大功田だった関係上、平家一門の領地は随所にあった。父清盛の罪障消滅を祈るために平重盛、千住に経島寺(佐賀市兵庫町瓦町千住に現存)を建立する(「兵庫村史」(昭和18年出版))。
A 建久五年(1194)
武蔵七党の一たる児玉党の旗頭、有荘氏の宗子、牟田参河守俊治が、巨瀬荘守護に任ぜられた。旧記によると当時俊治に従い、武蔵国から当地へ下向した者は池田、宮田、真崎、宮崎、千住、牟田口、井原、松永、橋本、及び巨瀬を加えて巨瀬の十名という。また江副、奥曽、公門、近藤、田所を巨瀬の五名という(「兵庫村史」)。
B 天正年中(1573〜)
千住伊賀守忠時、千住を領す ・・・龍造寺隆信に従ひ、天正年中我が巨瀬郷千住に住して伊賀守と称した、頽廃に帰せむとする経島寺に四国の僧、湛蔵司を迎へて住職として信仰厚く、その復興を図ったのもこの忠時であった。天正十二年三月隆信に従ひ島原役に出陣して戦死を遂げた、法名を天岸喜翁大居士と号する。其子時房は直茂公に従って朝鮮陣に功を立て千住村の代官を仰せ付けられた。時房の三男が又左衛門房共で始めて別に家を立てて千住氏を称した。之が始祖である。・・・附記 ・・・千住家は現存し、本家の裔は芸術家として立たんと奮闘中であり、分家の系統としては現徴古館長文学士千住武次郎氏、都城中学校長千住栄臣氏等がある。・・・」(「兵庫村史」)
C 寛永五年(1628)
佐賀本藩 寛永五年惣着到に、千住善右衛門尉(35石、鍋島右近允与)、千住八左衛門尉(弓鉄砲副之鑓、鍋島右馬助与)が見える(「佐賀藩着到帳集成」)。
D 延宝元年(1673)(「葉隠」(岩波文庫)の、中巻p.111に、千住久左衛門が見える。p.171に、その子千住善右衛門討ち果たしの事という記事がある)。
千住善右衛門兼之 同輩を討ち、切り死に ・・・この善右衛門兼之は綱茂のとき、若殿様の御式台、御使、御供などの雑務掛を勤めて、若輩ながら馬上を許されていた。そのため日ごろから家中の若手の器量者たちから、羨望と嫉妬の目で見られていた。千住善右衛門は同輩たちの妬みを感じていて、いつか遺恨を晴らしてやりたいと逆恨みに考えていた。延宝元年二月晦日の夜、善右衛門は西二右衛門、深江六左衛門、納富九郎左衛門、石井源左衛門ら、いずれも親は大身の者ばかりである。江戸の小屋(屋敷)に一同を招いた。招かれた同輩たちは、いずれも善右衛門の宿意など思い当たることもないので、快く馳走を受けて酩酊した。宴も深まり夜中に及ぶと、めいめい足下がおぼつかなくなってきた。頃合いを見て日ごろの遺恨を晴らそうと、善右衛門が突然、同輩に切りかかった。刃を向けられて驚いた四人は、格闘の末に善右衛門から討ち果たされ(ママ)自らも切り死にした。本来ならば千住家の跡目は、断絶となるところである。光茂は格別の計らいで久左衛門の娘婿、今泉伝兵衛に、善右衛門の跡の枝吉家を相続させた。さらに今泉家の跡は二男六郎右衛門を立てた。その後、伝兵衛には、元のように今泉の名字を許され、六郎右衛門から千住の名字に戻った」(「佐賀の江戸人名志」)
E 元禄八年(1695)
「佐賀本藩 元禄八年着到」に、千住三郎左衛門(切米十五石、知行三十七石五斗 掃部組)、千住六郎右衛門(物成六十石、知行百五十石 市左組)が見える(「佐賀藩着到帳集成」)。
F 千住西亭(文化十三年〜明治十一年)
「国学者。名は健任、通称は代之助、西亭または西翁と号す。文化十三年佐賀に生まる。天保八年肥後に遊学し帰国の後藩学指南となる。安政年間米国留学を命じられたるが、国事多端のため果たさず。元治元年御側頭兼目付役となり、藩主直正が没すると、春日山上公の墓側に閑居す。在職三十二年間常に公の左右に侍し、信任最も厚く、又能く帷幄に参じて国歩艱難の際貢献するところ大なり。閑叟公年譜及び言行録の編著あり。明治十一年十二月没す。年六十三」(「佐賀が生んだ幕末・明治二百人の群像」)
G 安政三年(1856)
国内情勢に関しても、(藩主・鍋島)直正は藩士を盛んに遊学や視察に派遣した。島義勇は一八五六(安政三)年秋、直正から北海道踏査の特命を受けて出発。長州や鳥取などで知名士や有力者と会い、政治や経済を調査している。「海外警備に力を入れているが、わが藩に比べると児戯に等しい」。長州藩で記した日記の一節である。他藩の技術力や軍備の把握も、視察の特命事項だったことがうかがえる。同じ年には精煉方(せいれんかた)の中心人物だった佐野常民や直正側近の千住大之助が薩摩藩を訪ね、反射炉など工場施設を集中させた「集成館」などを視察した。詳細なスケッチを残していることをみても、技術水準を探らせたものとみられる。(インターネット文書http://www.saga-s.co.jp/pub/hodo/kaikaku/kaikaku39.html)
H 万延二年(1861)
諫早家万延二年座居帳に、千住徳蔵(切米定米 六石八斗、三左衛門与)が見える。
I 慶応三年(1867)
切米 弐拾石 千住大之助、切米 三拾石 千住平作、物成 四拾石 千住久左衛門(惣番秩禄「肥前鍋島家分限帳」)
J 明治三年(1870)
蓮池(はすのいけ)藩 明治三年庚午十月惣着到 に、千住半吾(十五石)、千住勇平(十五石)が見える(「佐賀藩着到帳集成」)。
K 明治十九年(1886)
慶應義塾に入塾した者として、東京府麹町区永田町二丁目一番地 士族千住嘉七の長男である、千住儀一郎(慶応三年三月生まれ、佐賀郡唐人町百十六番地千住)が見える(「慶應義塾入塾者名簿 佐賀県」)。
L 千住虎吉(天保十三〜明治四十三)
「教育家。佐賀藩士千住代之助の養嗣子にして、天保十三年十二月生まれる。少壮弘道館に学び、戊辰の役奥羽征討軍に従いて功あり、禄十石を賞賜される。明治七年七月弘道館内の蒙養舎を継承して勧興小学校を創立するに及び、選ばれて校長に任じられたが、同二十五年職を辞す。この間十余年、教育発展に貢献する。鍋島家の推挙により百六銀行取締役となり、初めて身を実業界に投ず。後又佐賀セメント会社、佐賀馬車鉄道会社等の監査役を兼ね、而してこの間佐賀市学務委員、市会議員等に選任されて市政に参画。同四十三年十一月十九日没。年六十八」(「佐賀が生んだ幕末・明治二百人の群像」)。
M 千住武次郎氏
明治3年(1870)に佐賀藩士石井家に生まれ、同じく藩士千住家の養子となりました。佐賀県立佐賀中学校から東京帝国大学文学部国史科を卒業し、愛知、山形、兵庫、埼玉各県の中学校教諭、校長を歴任し、大正2年(1913)母校の佐賀県立佐賀中学校の校長に就任。12年間在職し、名校長と謳われました。退職後は、佐賀県立図書館長、鍋島侯爵家徴古館長、肥前史談会長などを歴任し、郷里における教育活動、文化振興に大きく貢献しました。昭和32年(1957)に死去しました(インターネット記事http://nabeshima-ishii.hp.infoseek.co.jp/senjin_inseki.htm)。
 

戻る


福岡千手氏

寛文四年(1664)? 福岡藩の分限帳に、小林四郎左衛門組御馬廻として、「(百石) 
道橋奉行 千手伊兵衛」とある(「寛文官録」)。

戻る


金田千手氏

明治四年(1871)、金田村の千手仁六千手幸四郎が金田村四郎丸に石炭山開墾を
願い出ている。明治六年に、田川郡坑業人として千手仁六が見え、271840斤の輸出
高が記される(「金田町史」)。

昭和五十九年、千手大蔵氏が勲五等・瑞宝章を叙勲されている(「金田町史」)。

金田町西金田の千手穣氏の宅に、高房のものと伝える鎧かぶとと、千手興房の肖像画
が保存されている(「金田町史」)。
「今度私が原田史をしらべているとき、ふと千手氏のことを思い出し、八幡の電話帳をく
って、しらみつぶしに電話をかけてみるつもりで最初にかけた相手が、田川郡香春岳の
子孫千手氏であった。千手氏は嘉穂千手氏と香春千手氏とがあり、香春千手氏の後は
田川郡金田町に住んでいるそうで、数は多くないそうである。そして本家は小倉に住んで
いると、おしえてくれた。小倉千手氏はなんと驚いたことには、私の家の目と鼻の先に住
んでいたが、当家に伺って話をしたけれど、話にはうすうす聴いていたがくわしいことは
今では分からないとのことであった。千手家も年がたつと、先祖のことはわからなくなっ
てしまっている。今のうちなら当方に資料もあるから、残しておかれたらよろしかろうと言
ってわかれたがどうしておられるかわからない」(「豊前香春城と原田氏」)。

東金田の墓塔にある家紋は、六段毬鋏(まりはさみ)に一つ丁子巴?

戻る


戻る
戻る