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佐賀市兵庫町瓦町に千住集落があり、佐賀県には全国四百軒ほどの千住氏のうち、百四十軒(うち九十軒が佐賀市内)があるが、古文書によれば全く違う系統のようである。しかし念のため調査結果を以下に記しておく。九州大学には千住氏文書があるという。なお、ヴァイオリンで著名な真理子さんなど芸術家一家として著名な千住家と佐賀千住家との関連は分からないが、慶応義塾進学者がいることや、下記の「千住家は現存し、本家の裔は芸術家として立たんと奮闘中」との記述は興味深い。 |
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治承三年(1179) |
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平家時代の肥前は、平清盛の大功田だった関係上、平家一門の領地は随所にあった。父清盛の罪障消滅を祈るために平重盛、千住に経島寺(佐賀市兵庫町瓦町千住に現存)を建立する(「兵庫村史」(昭和18年出版))。 |
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建久五年(1194) |
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武蔵七党の一たる児玉党の旗頭、有荘氏の宗子、牟田参河守俊治が、巨瀬荘守護に任ぜられた。旧記によると当時俊治に従い、武蔵国から当地へ下向した者は池田、宮田、真崎、宮崎、千住、牟田口、井原、松永、橋本、及び巨瀬を加えて巨瀬の十名という。また江副、奥曽、公門、近藤、田所を巨瀬の五名という(「兵庫村史」)。 |
B |
天正年中(1573〜) |
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「千住伊賀守忠時、千住を領す ・・・龍造寺隆信に従ひ、天正年中我が巨瀬郷千住に住して伊賀守と称した、頽廃に帰せむとする経島寺に四国の僧、湛蔵司を迎へて住職として信仰厚く、その復興を図ったのもこの忠時であった。天正十二年三月隆信に従ひ島原役に出陣して戦死を遂げた、法名を天岸喜翁大居士と号する。其子時房は直茂公に従って朝鮮陣に功を立て千住村の代官を仰せ付けられた。時房の三男が又左衛門房共で始めて別に家を立てて千住氏を称した。之が始祖である。・・・附記 ・・・千住家は現存し、本家の裔は芸術家として立たんと奮闘中であり、分家の系統としては現徴古館長文学士千住武次郎氏、都城中学校長千住栄臣氏等がある。・・・」(「兵庫村史」) |
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寛永五年(1628) |
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佐賀本藩 寛永五年惣着到に、千住善右衛門尉(35石、鍋島右近允与)、千住八左衛門尉(弓鉄砲副之鑓、鍋島右馬助与)が見える(「佐賀藩着到帳集成」)。 |
D |
延宝元年(1673)(「葉隠」(岩波文庫)の、中巻p.111に、千住久左衛門が見える。p.171に、その子千住善右衛門討ち果たしの事という記事がある)。 |
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「千住善右衛門兼之 同輩を討ち、切り死に ・・・この善右衛門兼之は綱茂のとき、若殿様の御式台、御使、御供などの雑務掛を勤めて、若輩ながら馬上を許されていた。そのため日ごろから家中の若手の器量者たちから、羨望と嫉妬の目で見られていた。千住善右衛門は同輩たちの妬みを感じていて、いつか遺恨を晴らしてやりたいと逆恨みに考えていた。延宝元年二月晦日の夜、善右衛門は西二右衛門、深江六左衛門、納富九郎左衛門、石井源左衛門ら、いずれも親は大身の者ばかりである。江戸の小屋(屋敷)に一同を招いた。招かれた同輩たちは、いずれも善右衛門の宿意など思い当たることもないので、快く馳走を受けて酩酊した。宴も深まり夜中に及ぶと、めいめい足下がおぼつかなくなってきた。頃合いを見て日ごろの遺恨を晴らそうと、善右衛門が突然、同輩に切りかかった。刃を向けられて驚いた四人は、格闘の末に善右衛門から討ち果たされ(ママ)自らも切り死にした。本来ならば千住家の跡目は、断絶となるところである。光茂は格別の計らいで久左衛門の娘婿、今泉伝兵衛に、善右衛門の跡の枝吉家を相続させた。さらに今泉家の跡は二男六郎右衛門を立てた。その後、伝兵衛には、元のように今泉の名字を許され、六郎右衛門から千住の名字に戻った」(「佐賀の江戸人名志」) |
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元禄八年(1695) |
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「佐賀本藩 元禄八年着到」に、千住三郎左衛門(切米十五石、知行三十七石五斗 掃部組)、千住六郎右衛門(物成六十石、知行百五十石 市左組)が見える(「佐賀藩着到帳集成」)。 |
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千住西亭(文化十三年〜明治十一年) |
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「国学者。名は健任、通称は代之助、西亭または西翁と号す。文化十三年佐賀に生まる。天保八年肥後に遊学し帰国の後藩学指南となる。安政年間米国留学を命じられたるが、国事多端のため果たさず。元治元年御側頭兼目付役となり、藩主直正が没すると、春日山上公の墓側に閑居す。在職三十二年間常に公の左右に侍し、信任最も厚く、又能く帷幄に参じて国歩艱難の際貢献するところ大なり。閑叟公年譜及び言行録の編著あり。明治十一年十二月没す。年六十三」(「佐賀が生んだ幕末・明治二百人の群像」) |
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安政三年(1856) |
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国内情勢に関しても、(藩主・鍋島)直正は藩士を盛んに遊学や視察に派遣した。島義勇は一八五六(安政三)年秋、直正から北海道踏査の特命を受けて出発。長州や鳥取などで知名士や有力者と会い、政治や経済を調査している。「海外警備に力を入れているが、わが藩に比べると児戯に等しい」。長州藩で記した日記の一節である。他藩の技術力や軍備の把握も、視察の特命事項だったことがうかがえる。同じ年には精煉方(せいれんかた)の中心人物だった佐野常民や直正側近の千住大之助が薩摩藩を訪ね、反射炉など工場施設を集中させた「集成館」などを視察した。詳細なスケッチを残していることをみても、技術水準を探らせたものとみられる。(インターネット文書http://www.saga-s.co.jp/pub/hodo/kaikaku/kaikaku39.html) |
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万延二年(1861) |
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諫早家万延二年座居帳に、千住徳蔵(切米定米 六石八斗、三左衛門与)が見える。 |
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慶応三年(1867) |
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切米 弐拾石 千住大之助、切米 三拾石 千住平作、物成 四拾石 千住久左衛門(惣番秩禄「肥前鍋島家分限帳」) |
J |
明治三年(1870) |
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蓮池(はすのいけ)藩 明治三年庚午十月惣着到 に、千住半吾(十五石)、千住勇平(十五石)が見える(「佐賀藩着到帳集成」)。 |
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明治十九年(1886) |
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慶應義塾に入塾した者として、東京府麹町区永田町二丁目一番地 士族千住嘉七の長男である、千住儀一郎(慶応三年三月生まれ、佐賀郡唐人町百十六番地千住)が見える(「慶應義塾入塾者名簿 佐賀県」)。 |
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千住虎吉(天保十三〜明治四十三) |
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「教育家。佐賀藩士千住代之助の養嗣子にして、天保十三年十二月生まれる。少壮弘道館に学び、戊辰の役奥羽征討軍に従いて功あり、禄十石を賞賜される。明治七年七月弘道館内の蒙養舎を継承して勧興小学校を創立するに及び、選ばれて校長に任じられたが、同二十五年職を辞す。この間十余年、教育発展に貢献する。鍋島家の推挙により百六銀行取締役となり、初めて身を実業界に投ず。後又佐賀セメント会社、佐賀馬車鉄道会社等の監査役を兼ね、而してこの間佐賀市学務委員、市会議員等に選任されて市政に参画。同四十三年十一月十九日没。年六十八」(「佐賀が生んだ幕末・明治二百人の群像」)。 |
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千住武次郎氏 |
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明治3年(1870)に佐賀藩士石井家に生まれ、同じく藩士千住家の養子となりました。佐賀県立佐賀中学校から東京帝国大学文学部国史科を卒業し、愛知、山形、兵庫、埼玉各県の中学校教諭、校長を歴任し、大正2年(1913)母校の佐賀県立佐賀中学校の校長に就任。12年間在職し、名校長と謳われました。退職後は、佐賀県立図書館長、鍋島侯爵家徴古館長、肥前史談会長などを歴任し、郷里における教育活動、文化振興に大きく貢献しました。昭和32年(1957)に死去しました(インターネット記事http://nabeshima-ishii.hp.infoseek.co.jp/senjin_inseki.htm)。 |