北京貴賓道中記

 2004年8月、北京国際教育博覧会2004に参加するために、都立大学の茂木総長とともに北京を訪れた。以下はその時の旅日記である。
 私にとって北京は2年振り、6回目の訪問である。また、6年前に私と茂木先生が酒呑童子のお供をして珍道中を繰り広げた懐かしい思い出がついこの間のことのように蘇ってくる。酒呑童子は昨年鬼籍に入られ、珍道中の再現が出来ないのが残念でならない。

8月23日(星期一):

 我々の乗ったNW19便のDC10は、満席に近い乗客を乗せて、定刻18時10分に成田空港を飛び立った。順調に飛行して、21時に北京空港に着陸した。2008年の奥林匹克に備えて新しくなった空港ビルディングは、以前とは比較にならない広さである。入国手続きは長蛇の列であったのに加えて、機内で書いておいた入国カードが「鉛筆ではダメ、ペンで書け」といわれて書き直す羽目になったために、随分時間がかかり、当日最後の入国者になってしまった。
 北京市教育委員会から綫聯平副主任、藩芳芳さん、何樫さんが迎えに来てくれた。「副主任」といえばNo.2である。こんな遅い時間に副主任に出迎えに来て頂いて、恐縮の極みである。明日から我々のガイド兼通訳を務めてくれる関海英さんも来ている。我々がなかなか出て来ないので、首を長くして待っていたに違いない。藩芳芳さんは1997年に訪中したとき以来の老朋友である。その後都費留学生として教育委員会から都立大学に派遣され、茂木先生の指導で修士の学位を取得した後帰任し、現在は対外合作与交流処の重要メンバーになっている。都立大学から半月ほど前に送った展示用の資料が届いているかどうか気になって総長が芳芳に聞いてみると、「未だ届いていないので、都立大学のブースは空っぽです」という。困ったことになったと話していたら、芳芳がどこかに電話して「着いているようです」という。良かった! 明日の朝までに会場に運んでもらえば、何とか間に合うだろう。
 勝手知ったる首都機場高速公路を走り、20分ほどで北三環東路にある北京皇家大飯店に着いた。4つ星ホテルである。私は820号室、茂木先生は728号室に案内された。立派な部屋である。部屋には花が飾られていて、桃、林檎、梨、キィウィが盛られた果物籠が用意されている。冷蔵庫には飲み物が詰まっているし、棚には酒も何種類か並んでいる。私にとっては無用の長物であるが、酒呑童子が来たら目を細めて喜んだに違いない。
 多少餓だったので、1階のラウンジで軽く夜食を食べることにした。「ポケットサンドヰッチ」なるものを頼んだら、巨大な春巻き風のお化けみたいなものが出てきた。美味しかったので全部食べたら飽極了になってしまった。明日以降に備えて、「軽く」腹ごしらえをしようと思ったのだが・・・。

8月24日(星期二):

 7時に2階の食堂へ行った。ヴァイキング形式であるが、並んでいるものは洋食ばかりで、中国らしいものは粥しかなかった。朝食後、部屋に戻って桃を食べた。
 約束通り8時に関海英さんが来てくれた。関さんは黒竜江省出身の満族で、北京郵電大学日本語学科の3年生である。普通の会話は上手に出来るが、困ったときには電子辞書を取り出して調べていた。博覧会の会場はホテルの隣にある中国国際展覧中心である。首から参加証を下げて出かけた。通りには「北京国際教育博覧会」の旗が並んでいる。会場には既に大勢の見学者が詰めかけていた。入場証を機械に差し込むとゲイトが開くようになっている。真っ赤な歓迎アーチがあり、アドバルーンが上がっていて楽隊が並んでいる。芳芳が我々を貴賓室に案内してくれた。豪華な記名帳に筆で署名し、赤地に金文字で「貴賓」と書かれた札の付いた花を胸に挿してもらった。我々が一番乗りだったが、やがて主催者である北京市の朱副市長と教育委員会の耿学超主任、招待者であるMIT、ミネソタ大学、モスクワ大学、モントリオール市の代表など十数人が揃い、名刺交換をして歓談した。時間になり、玄関前に設営された開会式の会場へと案内された。驚いたことには、我々の席は客席最前列の中央である。夥しい数の取材班が詰めかけている。随分撮りまくられたから、TVでも放映されたに違いない。主催者である朱副市長は「この博覧会は今年が第1回であり、来年7月に第2回を開催し、以後毎年開催したい」と宣言していた。
 開会式が終わって、展示会場になっている3階に行って見た。階段を上ったすぐ先に「東京都立大学」と書かれたブースがある。大学案内が並べられていると思いきや、机と椅子以外には何もないではないか! 已んぬる哉!
 右隣は協定校である北京化工大学のブースである。恥ずかしいけれど、寄って敬意を表した。交流協定を締結したときに撮った王学長と私が握手している写真が飾られていた。
 「空気」だけを展示している大学がもう一校あってホッとした。MITである。MITは中国側が最も強く交流を望んでいる大学であり、今回来ている代表も別格の扱いを受けている。
 広い会場に実にたくさんのブースが並んでいる。大学だけではなく、専門学校や高等学校、中学校もある。貴賓の花を付けているせいで、あちこちのブースで声を掛けられたり呼び込まれたりした。特に海淀区の教育委員会からは熱心な説明を受け、お土産に月餅までもらった。関さんの大学のブースにも寄って挨拶した。会場で首都師範大学の沙傑さんに会った。老朋友であるが、暫く会っていないので分からないかも知れないと思っていたら、直前にメイルで近影を送ってきてくれた。あちこちでもらった資料が持ちきれないほどたくさんになってしまった。
 11時半になったので、我々のために用意されている車に乗って、昼食のためにKempinski Hotelに移動した。朱副市長主催の立派な昼食を御馳走になりながら、交流の推進について熱のこもった意見交換が行われた。
 ホテルに寄って、もらった荷物を置いて、再び会場に戻った。先程は車に乗って会場を出たので、入場証を機械に差し込まなかった。従って、我々はまだ会場内にいることになっているので、再入場することが出来ない。関さんが係員に事情を話して、脇の機械のない扉を開けてもらって入ることが出来た。関さんに「これは中国語では走后門だが、日本語では裏口入場という」と教えた。
 かすかな期待を抱いて3階に上がってみたが、都立大学のブースには相変わらず空気以外の展示物はなかった。何か嘆かん今更に! こういうときに茂木総長は少しも慌てない。
 王府井へ行って見ることにした。王府井といえば北京の銀座である。数年間かけて再開発工事をしただけあって、随分近代的になっていた。しかし、中国らしさが少なくなったのは残念である。「3折」「4折」などと書かれた看板が目に付いたので聞いてみたら「7割引」「6割引」のことだった。歩き回って少々疲れたので、歩道に椅子を並べている店に座って、喉を潤すことにした。酒呑童子ならば「喉が渇いた」といってロ卑酒を飲むところであるが、我々はロ卑酒は飲まない。「緑茶」があったので「やっと中国にも緑茶が登場したか」と喜んだが、飲んでみると、何と「甘茶」である。これは看板に偽り有りである。いかんぞなもし!「娃哈哈」という銘柄の飲料水が売られているのが可笑しい。成田空港で借りてきた携帯電話を使って親玉先生に電話して、本日の会議の様子を聞いた。中国の携帯電話(手机)は日本に比べてかなり小型である。
 3年前に訪れたときに、自動車(汽車)が倍増していることと携帯電話(手机)が普及していることに驚いたが、今回はそれが一段と進んでいることを実感した。今や北京は「自転車(自行車)の街」から「自動車(汽車)の街」に変わったといえる。3年前にも見かけたが、今回は「北京把士股?(人偏に分)公司」と書かれたきれいなバスが随分たくさん走っている。民営のバス会社が勢力を伸ばしてきたらしい。2008年に奥林匹克が開かれることもあって、北京の発展振りは凄まじい。建物がどんどん建っているし、道路も四環路、五環路が完成し、六環路もかなり出来ている。しかし、北京に最も必要なものは地下鉄網だと思うのだが・・・。現在は3系統しかなく、2007年までには10系統ほどになるらしいが、やっとあちこちで工事が始まっているという段階である。
 そろそろ夕食時になったが、ホテルに帰って食べるのも面白くない。関さんは王府井には詳しくないらしいが、適当に横町に入ってみた。一軒の店の看板を見て関さんが「あれは私の故郷の方の料理です」というので、入ることにした。どう見ても「貴賓」が入るに相応しい店ではないが、胸の花を外しているからいいことにしよう。しかし、王府井で背広を着て歩いている者は他には見当たらないが、この際そんなことは気にしないことにする。関さんは菜食主義者であり、肉や魚は一切食べないという。醤牛肉の他は関さんに選んでもらって注文したが、運ばれてきた皿を見て驚いた。どれも大変な大盛りである。店構えとは関係なく好吃であった。3人で50元! 何とも安い!

8月25日(星期三):

 7時に2階の食堂で朝食を食べてから、1階の土産物店に寄ってみた。印鑑を作ることにして、総長は3本、私は1本注文した。今日は日本人の泊まり客が多く、ロビーが賑やかである。
 関さんが迎えに来てくれて出かけることにしたが、雨が降っているので、を買った。折りたたみが30元、折りたたみでない大判の傘が40元だったので、大判を買った。雨が降り始めたために値段が倍になったに違いない。
 今日は、総長が13時30分に北京市教委区委員会を訪問して特殊教育の話を聞くことになっている以外に昼間の予定はない。故宮と天安門へ行ってみることにした。私にとってはどちらも曽遊の地であるが、久し振りの再訪は楽しみである。故宮に着いてみると、霧雨程度であるが、靄がかかっていて遠くが見えない。堀には「遊泳厳禁」「スケート禁止」「釣禁止」と書かれている。何故遊泳だけ厳禁なのかしら。便所はかつては「厠所」と決まっていたが、最近では「手洗」「衛生間」などと書かれることが多くなっている。故宮の入場料は、大人60元、学生20元であるが、関さんは学生証を持って来なかったというので、180元払った。南の午門から入り、かなり歩いて大和門をくぐり、更にかなり歩いて大和殿に辿り着く。皇帝は歩かなかったかも知れないが、実に広い。全ての建物が、壁と柱は赤、屋根瓦は黄色で統一されている。屋根の端には様々な動物の像が飾られている。中和殿の後ろの階段には長さ16.5m、幅3.07m、厚さ1.7m、重さ200t以上一枚岩が使われている。どの階段も皇帝が通った中央部は閉鎖してあり、我々庶民は両端を通るようになっている。故宮は現在西半分が修復工事中であるが、見学に差し支えることはなかった。乾清宮の裏は庭園である。北の神武門まで歩いたら随分良い運動になった。立派な世界遺産である。いつの間にか雨が上がっていた。
 外に出たら「ローレックス200元」といって、一見して偽物と分かる時計を売っている男達がいた。かつて酒呑童子は「韓国で買った」という偽物のローレックスを使っていた。「それは偽物ですよ」「そうかね」などといっているうちにメッキが剥げてきた。「やっぱり君のいった通りだったよ」といっていつの間にか使わなくなった。
 前門(正陽門)から毛主席記念堂を迂回して天安門広場に行った。記念堂が広場を狭くしている。国旗の前で直立不動の姿勢を続ける兵士には、いつものことながら感心させられる。天安門に向かって右にある大きな建物を「博物館だ」といったら、関さんは「違います」という。地図を出してみたら、やはり博物館だった。「北京のことは私に任せなさい。分からないことがあったら何でも聞くように」と胸を張った。地下道には浮浪者達が寝ていた。
 景山の小さな店に入って餃子などで腹ごしらえをして、前門西大街にある教育委員会に向かった。我々は酒呑童子とともに1998年にここを訪れている。今回は特殊教育の話をするということだったので、私は近くを散歩して時間を潰そうと思っていたが、呼び止められて同席することになり、総長と基礎教育処の張永凱主任が1時間ほど懇談するのを拝聴した。建物の1階ロビーには「?小平生誕100年記念」の大きな看板が掲げられていた。
 すぐ近くの文房四宝の街琉璃廠へ行き、栄寶斎で鶏血石の印鑑を注文した。琉璃廠には大小様々な文房具店や書店が軒を連ねている。更に通りに店を出している現場製印店もたくさんある。現場製印の堀手は殆ど美術系大学の大学院生らしい。総長は現場製印店で3本注文し、彫り上がるまでの間琉璃廠を一番奥まで探訪した。
 ホテルに戻り、シャワーを浴び、着替えをしてCTS Plazaで開かれるReception Dinnerに向かった。貴賓室に通され、許副市長の挨拶を受け、初日と同じ「貴賓」の花を胸に付けられた十数人が会場へ案内された。最初は前に並ばされたが、200人ほどの立食パーティーだから、気が楽だった。

8月26日(星期四):

 今日は15時に首都師範大学の黄先生が迎えに来て下さることになっている。それまで総長は教え子の田さんに障害児施設に案内してもらい、私は関さんの案内で大学訪問をすることにして、8時20分に出発した。三環路を西に走って北京大学を訪れた。大きな池のある庭園があり、実に広大なキャンパスである。風格のある古い建物が多いが、真新しい現代的な建物も建っている。大きく立派な図書館が北京大学の水準の高さを表わしている。中国の大学は全寮制で、学内に多数の寮を持っている。関さんは「あの寮に一緒に故郷から来ている友達がいる」という。どうやら彼氏らしいので、「会っていくか」と聞いたが「今日はいい」という。診療所にはSARSの名残で「発熱患者」に対する指示が出されていた。少し早いが昼食を食べることにした。以前来たときに学生達が食堂で「饅頭」を食べているのを見て「食べたい」と思ったが、実現しなかったので、今度こそ饅頭に挑戦してみようと思った。学内には食堂が多数あるが、その多くはカードしか使えないようになっているらしい。関さんは「友達に電話して来てもらわないとダメかな」といっていたが、幾つか覗いているうちに現金が使える所が見つかった。しかし、残念なことに饅頭はなかった。キャンパスが広過ぎて車の場所が分からなくなり「私は方向音痴ですから・・・」といって運転手に電話しようとする関さんに対して「私に任せなさい」といって先程降りた場所に戻ったので、驚いていた。
 隣にある清華大学に寄るつもりだったが、12時近くなってしまったので省略して、孫華飛教授のいる北京理工大学へ行ってみることにした。孫華飛教授は都立大学で学位を取ったあと暫く日本にいてから、北京理工大学に就職した。2002年に来たときにホテルに来てくれたが、時間がなかったので彼の勤務する大学を見たことがない。行って見ると実に立派な大学であるが、彼がどこにいるのか分からない。案内図を見てもよく分からないので、歩いている人に「数学系はどこですか」と聞いたら「裏の高い建物だ」という。中心教学楼と書かれた建物の8階であることが分かったので、8階に上がってみたが、それらしい部屋が見つからない。人の気配がする部屋があったので聞いてみたら「先程までいたが帰った」という。「予告なしに来たから仕方がない」と諦めかけたが、念のため部屋をノックしてみたら中に紛れもない孫華飛教授がいるではないか! 流石にビックリしていた。昼を食べに出て戻ったところだという。きれいに整備されたキャンパスを案内してもらった。今は夏休だから少ないが、普段は約2万人の学生がいるという。理工大学にしては運動場が広い。キャンパスに柿の木が多く、たくさんの実を付けている。彼が勤めている大学が非常に立派であることを確認出来て嬉しかった。
 ホテルに戻ろうとして走り出したが、関さんの大学が近いことを思い出したので、「寄って行こう。この先を右に曲がれば直ぐだろう」といったら「私はよく分かりません」と驚いていた。本当に方向音痴らしい。私は東京では方向音痴であるが、北京に来ればガイドが出来そうである。幸いにして運転手は非常に良く道を知っていて、直ぐに行き着くことが出来た。門を入った先に大きな毛沢東の像がある。彼女の住んでいる学生寮真新しい建物だった。14時30分にホテルに戻った。関さんは我々の滞在中の面倒を見るのが仕事であるが、今からは首都師範大学が面倒を見てくれることになっているので「ずっと仕事をしたことにしておけばいい」といったら、喜んで帰っていった。
 15時30分にロビーで老朋友黄先生とお会いした。黄先生は都立大学と北京市所管の大学との研究者交流協定で来日した最初の人であり、都立大学が移転する前の深沢キャンパスにおいて1年間親しく共同研究をしたことがつい昨日のことのように蘇ってくる。帰国後は首都師範大学の国際文化交流部長として活躍され、数年前に定年で第一線から退かれたが、その後も引き続き国際交流の仕事に貢献していらっしゃる由である。首都師範大学は私にとっては5回目の訪問になる。黄先生の令息は都立大学で修士の学位を取得した後東京の会社に勤めており、令息夫人は都立大学大学院に留学して茂木先生の指導を受けた。というわけで、黄先生と都立大学とは深い縁がある。早速西三環北路にある首都師範大学へ向かった。しかし、過去4回は西三環北路105号のキャンパスだったが、今日訪問するのはその少し北の西三環北路83号にあるキャンパスである。車が止まったのは完成したばかりの巨大な建物の前だった。黄先生から「着きました。これが新しい国際文化交流学院です」といわれた。「この何階ですか」と聞いたら「全部です」という。とんでもない大きさである。首都師範大学の国際文化交流部はこれまでは西三環北路105号のキャンパスにあり、何度も訪問したことがあるが、この建物に比べれば1/10もないだろう。黄先生は「あとで副学長と学院長が来ますが、先ず中を見学しましょう。私も中に入るのは初めてです」といって、我々を建物の中へ案内してくれた。この巨大な建物は、首都師範大学が銀行から借金して建て、管理は外部委託にしているという。その管理会社東方酒店管理有限公司の責任者である顧群さんが中を案内してくれた。9月1日から使用開始ということであるが、既に旧施設から移動してきた留学生達が入居しているので、食堂などは営業している。食堂も旧施設のものとは雲泥の差である。しかし、一部の工事が遅れているとのことで、あちこちで内装工事が行われていた。向かって左側の建物が宿泊棟で1000人!入居可能、右側の建物には教室や会議室・研究室などが配置されている。宿泊室は広く、厠・淋浴室・電視・電話付きである。日本人留学生向きに風呂付きの部屋も用意されている。これまでの中国の学生寮とは全くの別世界である。
 屋上に出てみると、西三環北路105号のキャンパスがすぐ先に見える。今日は朝から晴れているのか曇っているのか分からないような空模様だったが、太陽がはっきり見えるところを見ると、曇ってはいない。「これは黄砂ですか?」「黄色くないから黄砂ではありません。それに今は黄砂の季節ではありません」「それでは白砂ですか?」・・・。それにしても一体何だろう。
 一通り見学し終わった頃に劉利民副学長、劉暁天国際文化交流学院常務副学院長、王吉芳国際文化交流学院副学院長が来て下さった。院長は学長が兼務しているから、劉暁天常務副学院長がここの事実上のNo.1であり、王吉芳副学院長がNo.2である。国際文化交流部から国際文化交流学院と名前が変わったが、劉さんは黄先生の次の次のNo.1である。中国語で「次」は「下一」であるが、「次の次」を「下二」とはいわないらしい。
 今晩は劉副学長が我々を招待して下さるという。食堂の貴賓室でお茶を飲みながら、暫し歓談した後、近くの九花山?(火偏に考)鴨店に向かった。?鴨といえば「全聚徳」が有名であるが、本当のNo.1は九花山?鴨店だという。「ここは花園村ですね」「よく御存じですね」「東京はよく分かりませんが、北京のことは任せて下さい」などといっているうちに、北京市役所の田雁さんと藩芳芳さんが到着して、全員が揃った。芳芳は首都師範大学の出身で、劉暁天常務副学院長は大学時代の彼女の英語の先生である。芳芳は日本語と英語を自由に使いこなすが、どちらかといえば英語の方が得意らしい。やがて運ばれてきた?鴨は素晴らしかった。?鴨は花園村に限る! ここにも菓茶は無かったが、山査子のジュースがあり、美味しかった。殆ど同じものであるが、何故か「菓茶」とはいわないらしい。最近都立大学と北京市所管の大学との交流が途絶えていることに話が及び、黄先生が「茂木先生と荻上先生を首都師範大学の客員教授としてお呼びしたらどうか」と提案したのに対して、劉副学長が「是非そうしたい」と頷き、田さんは「私が招聘状に署名しますからビザは心配ありません」と太鼓判を押した。田さんは都立大学に2回留学したことがあり、現在は北京市役所外事処の重鎮である。

8月27日(星期五):

 7時に出発して車2台で司馬台長城へ向かった。一台は快車の張さんが運転する濃紺の車で、黄先生、茂木先生、私が乗り、もう一台は谷学新さんが運転する銀色の車で、谷さんの令嬢が同乗している。両車は色が違うだけで、全く同じ車である。谷さんは、交換研究員として都立大学に滞在した後、化学系の主任を務め、昨年運転免許を取ったという。以前お宅に伺ったときには小さかった令嬢が、無錫の大学を卒業して、資生堂の関連会社に勤めているという。快車の張さんは、国際文化交流部の職員で、私は北京に来るたびにお世話になっている。谷さんは、免許を取った後、張さんと全く同じ車を買ったという。首都機場高速公路から京順路に入って、一路司馬台長城を目指した。かつて2回承徳を訪れているので、勝手知ったる道路である。豊かに茂った林の間を走る快適な道路であるが、都心へ向かう反対車線は随分渋滞している。道路沿いには多数の加油站があるが、日本の様に道路に面しているのではなく、道路から数十メートル離れている。今日も昨日と同じく白砂の空で、太陽が薄く見える。
 やがて密雲に差し掛かった。いつでも雲がかかっているからこの名前が付いたらしい。今日は白砂の空ではあるが、雲がかかっているわけではない様だ。以前来たときに比べて、随分街が拡大しているのに驚いた。この近くには密雲湖という湖があり、前回来たときにはそれに因んだ雲湖酒楼という名前のレストランに寄って、雲湖ロ卑酒を飲んだ。谷さんの知り合いが経営している店だったが、潰れたらしいという。是非もう一度寄ってみたいと思っていたので、残念である。道路の信号機に「残時間表示」があるのは便利である。
 広大な平野はここまでで、密雲を過ぎるとなだらかな丘陵になり、一転して「田舎」の様相を呈する。かつてはやたらと目に付いた「汽修」「汽車配件」「補胎」「水箱」などの看板が、随分少なくなった。そういえば、以前に比べて、ボロ車を見かけなくなった。
 9時半に司馬台長城に着いた。「着いた」といっても、長城は遙か彼方の尾根に霞んで見えている。「あそこまでどうやって行くのかしら」と不安だったが、ロープウェイがあることが分かってホッとした。ゴンドラは2人乗りである。私が先頭に乗り、2台目に茂木先生と黄先生が乗った。この辺りの山は禿山に毛が生えた程度であるが、最近植樹した様子がよく分かる。斜面に植樹し、土が流れない様に石を積んで「土留め」をしてある。段々に長城が近付いてきたが、ロープウェイの終点はかなり下であることが分かった。「ここから歩くのは大変だ」と恐れをなしたが、その先にはケーブルカーがあることが分かった。しかし、ケーブルカーの終点から長城まではかなりの高低差がある。ここから先は足元の悪い急な坂道を歩かなければならない。八達嶺の長城は革靴で楽に登れるが、司馬台長城には運動靴で来るべきである。
 歩き始めて間もなく道端にオバサン達の一団がいた。その中の3人が何かいいながら我々に付いて来た。土産物売りである。苦労しながら坂道を登っていると、中の一人が親切に手を引いてくれるが、この「親切」は曲者である。黄先生は中国人だからいいとしても、茂木先生には目もくれずに私にばかり「親切」にするのが腑に落ちない。私の方が老人に見えるとは思えない! 茂木先生は「荻上さんの方が金持ちに見えるのでしょう」というが、そんなことはないだろう。大きなカメラを提げていたからかしら。谷さんや張さんは「長城に来てモテたのです。証拠の写真を撮りましょう」といってパチパチシャッターを切っているが、当方にも選ぶ権利があることを忘れてもらっては困る。登り道を道鏡百足が横切った
 やっと長城に辿り着いた。汗びっしょりである。オバサンは扇いでくれるなどサービスに余念がない。黄先生が中の一人から司馬台長城の写真集をお土産に買って下さった。これで治ると思ったが、私の手を引いて来たオバサンは別な写真集を出して「これを買ってくれ。自分はあそこの村から2時間かけて登ってきた。これを買ってもらえば帰れる」といって北側にある村落を指さす。「あちらのオバサンから2冊買ったからいいだろう」といっても「あの人は別だ」「Tシャツはどうだ」「絵はがきもある」などといって引き下がらない。
 八達嶺の長城に比べると、城壁の幅が狭いが、相当に険しい山の尾根に築かれているから、これで十分であろう。我々はロープウェイとケーブルカーに乗り、オバサンに手を引かれて登ってきたが、これを築いた人々の苦労は想像を絶する。所々にある楼には土産物や飲み物などを並べて店を出している人がいる。昔は敵から国を護るための見張りがいたであろうこの場所に、今は物売りが網を張っている。3つほど先の楼まで行って引き返した。オバサンはまだ諦めない。
 先程登って来た道を逆に辿って、下山した。既に11時50分になっていたので、索道站の傍にある「長城飯荘」に登楼して昼を食べることにした。蠅が一匹テーブルを飛び回っていて五月蝿かった。日本語では「五月蝿」と書けば「うるさい」という意味であることを説明した。今テーブルを飛び回っているのは「八月蠅」であるが、先程のオバサンは「長城蠅」である。醤牛肉を始め美味しい御馳走が並んだが、貼餅子といわれるトウモロコシの粉で作った薄焼餅が懐かしい味で、お代わりをして楽しんだ。
 鴛鴦湖という小さな人工のダム湖がある。ノンビリと堤防工事をしている傍らに雲湖ロ卑酒の瓶が転がっていた。ということは、雲湖ロ卑酒未だ健在なりである。
 帰路は密雲の辺りで少し雨が降り、機場の近くで雷鳴が一発聞こえた。かなりの渋滞があり、ホテルに着いたのが16時30分だった。1時間ほど休んで、直ぐ近にある四川料理の店「香漁港大酒楼」へ登楼した。張さんの勧めでタニシ、羊の足など珍しい料理が並んだ。勿論醤牛肉がいの一番に運ばれて来たことはいうまでもない。この店にも貼餅子があるというので注文してみたが、甘過ぎて很好とはいえなかった。今回も食事の度に「菓茶」を注文したが、「没有」の連続だった。「北京に菓茶がなくなってしまったか。残念」と諦めかけていたが、ついに「菓茶」に巡り会うことが出来た。何たる幸せ! 北京に来て醤牛肉を食べ、菓茶を飲まなければ安心出来ない。食べ終わって外に出てみたら雨が降っていた。店の傘を借りてホテルに戻った。傘を持ち帰るために店員が付いてきたことはいうまでもない。

8月28日(星期六):

 朝起きてみると、抜ける様な青空で、昨日までの白砂天がウソの様である。これぞ北京秋天である。朝食後、散歩に出て、先ずスーパーマーケットに入って見た。食品売場は人が一杯である。早朝から食品を買っている人が多いのに驚く。照相機売場を覗いてみたら、茂木先生と同じカメラが1580元で売られていた。何と日本の半額だという。悔しがること頻り。「少年之家」という看板を掲げている建物があったが、どうやら塾らしい。拉面屋もある。
 北京には日本食の店がかなり目に付く様になり、ホテルの近くには回転寿司の店があった。
 10時に黄先生、谷さん、沙さん、張さんが2台の車で迎えに来てくれた。先日買った赤い傘を持っていったら皆が「今日は雨は降りません」という。「この傘を記念に持って帰りたいが、空港で没収されると面白くないので、進呈します」といって、黄先生に渡した。頼んでおいた印鑑を受け取るために琉璃廠へ向かった。印鑑を受け取って、少し早いけれど昼食を食べることにした。かつて入ったことのあるレストラン「老滸記」に入った。ここでも「菓茶」に巡り会うことが出来た。貼餅子もあった。醤牛肉を注文したことはいうまでもない。今や、菓茶、醤牛肉、貼餅子は中華料理における「三種の神器」である。琉璃廠の奥から練炭を積んだリアカーが次々と走ってくるのが不思議だった。琉璃廠に練炭の製造工場があること、大量の練炭が消費されていることは驚きである。何に使うのかしら。
 王府井が北京の銀座なら、西単は新宿に対応する。西単には何回も行ったことがあり、馴染み深い場所であったが、最近全く別な街に生まれ変わったそうで、黄先生は、地下鉄を降りて全く見たことのない風景だったので「しまった、降りる駅を間違えた!」と思ったという。1998年に来たときに泊まって様々な珍騒動を起こした民族飯店の前を通って西単に行った。「着きました」といわれたが、全く知らない場所である。以前商店が並んでいた所は大きな広場になっていて、あちこちに真新しい大楼が建っている。前に来たときに入った懐かしい麦当労が見当たらない。「ここが西単ですか?」と疑わしそうな顔をすると、黄先生は地下鉄の出入口に連れて行ってくれた。間違いなく懐かしい西単の地鉄站である。かつての新宿西口の変貌振りを思い出す。カタカナ書きを乱用する我が国と違って、中国における外国語の翻訳表記には感心させられることが多いが、今回は「STARBUCKS」=「星巴克」が目に付いた。土曜日とあって大変な人出である。百貨店に入ってみたが、簡体字がなければ中国であることを認識するのは難しい。カメラの値段が気になって照相機売場に寄ってみたが、残念ながら、というべきか、幸いにしてというべきか、今年の3月に発売になったばかりの私のカメラは売られていなかった。一つ前の機種は売られていたが、日本の値段より安くはなかったために、茂木先生の悔しさは倍増する結果になった。
 以前黄先生に西安で羊肉泡模(正しくは食偏)を食べた話をしたことがあったが、その話を覚えていてくれて、出かけて来る前に「北京にも羊肉泡模の店があるから行きましょう」というe-mailをもらっていた。東京で羊肉泡模の店に行ってみて、全く似て非なるものであることを経験しているので、「羊肉泡模は西安でなければダメだ。北京にも羊肉泡模の店はあるだろうが、どうせニセモノに違いない」と期待しないことにしていた。少し早かったが北三環中路にある「老孫家」へ行った。北京郵電大学の直ぐ北である。まだ明るいし、全く飢になっていないので、腹ごなしに郵電大学の東隣にある北京師範大学を見学しに行くことにした。先日郵電大学に来ているので、この辺りの地理は頭に入っている。師範大学の東門から入り、キャンパスの北半分を歩いて西門から出て帰ろうと思ったが、西門が見つからない。建ったばかりの高層学生寮に新入生達が入居し始めている様子などを見ながら、出口を探して、結局南門から外に出ることが出来た。日本に帰ってからこの大学の卒業生に聞いてみたら、「西門はない」という。随分広いキャンパスを北東から西を回って南の端まで歩いたことになった。ここまで来てしまったからには、西隣にある郵電大学のキャンパスを通って帰るのが近いだろう。キャンパスに立つ毛沢東像に敬意を表して、老孫家へ急いだ。腹ごなしの散歩は2時間近くかかってしまい、既に薄暗くなりかけていた。黄先生達は老孫家の中で首を長くしているに違いない。
 早速羊肉泡模が運ばれて来た。丼の中に直径15cm程の円盤形のパン(ナンの様なもの)が2枚入っている。これを各人が細かく千切るのである。機械で千切ることも出来るが、手で千切るのが本来である。6人の中で本場西安で羊肉泡模を食べたことがあるのは私だけであるから、このときばかりは大きな顔が出来る。「出来るだけ細かく千切るのがコツです」といって一斉に千切り始めた。黄先生が断然早く千切り終わったが、見れば親指の頭ほどの大きさに千切ってある。「そんなに大きく千切ったら、味がしみこまないので美味しくありません。やり直しです」・・・。20分程かけて細かく千切ると、店員が丼を番号の付いた円環に乗せて調理場に持って行き、煮込んで来るのである。番号の付いた円環は、自分の千切ったものが自分に戻る様にするためである。暫く待つと、先程の丼が羊肉スープで煮込まれた雑炊の様なもので満たされて戻ってきた。熱いのでフーフー吹きながら食べたが、実に懐かしい西安の味である。「これは本物です! 北京に本物の羊肉泡模があることが分かり感激です。しかし、本場では発音が違うので覚えておいて下さい」といって、「羊肉泡模」の西安の正しい発音を伝授した。私は飽極了になったが、谷さんや張さんは「半飽です」といってお代わりを注文した。お代わりは機械で千切ってもらったが、5mm角程度の賽の目に千切られている。
 今回は幾つかのレストランで、手拭湿巾付箸袋が使われていた。新しいアイデアだと思うが、店の名前が大きく書かれているので、宣伝効果もあるに違いない。
 ホテルまで送ってもらい、再会を期して固い握手を交わした。

8月29日(星期日):

 6時に軽く朝食を食べ、6時半に専属の運転手が迎えに来てくれて、空港に向かった。滞在中VIP待遇で実に快適であったが、空港に着いて専用車を降りた途端に、ガラリと待遇が変わった。何故か「鞄を開けろ」といわれる始末。全員が要求されているわけではないので、我々が怪しく見えたらしい。勿論お互いに「怪しく見られたのは自分ではない」と確信している。空港が立派になったために、免税店なども以前に比べると立派になり過ぎて面白くない。売られている物は観光客用に作られた土産物ばかりで、高価である。
 NW20便は定刻に離陸し、順調に飛行して、定刻より少し早く成田空港に着陸した。成田は雨だった。

 今まで気が付かなかったが、今回はドアに「推」「拉」と書かれているのが目に付いた。日本語の「押」「引」に相当する。また、かつては日本語の「非常口」に相当する表示は「太平門」が多かったと思うが、今回は「安全出口」が多く目に付いた。「果皮箱」の表示が見られなくなったのも残念である。


ホームページに戻る