台湾珍道中日記

 2008年4月、大学入学試験の実情を調査するために、神戸大学の川嶋太津夫教授、関西国際大学の濱名篤学長、大学入試センターの林篤裕教授とともに台湾を訪れた。以下はその時の旅日記である。調査報告書が別に作成されることは言うまでもない。

4月26日(星期六):

 9時20分発の全日空NH1801便に乗るために、6時に家を出た。中央高速、首都高速、東関東自動車道を経由して、7時30分にセントラルパーキング成田に着いた。さしたる渋滞がなく、予定した時刻に正確に着くことが出来た。車を預けるための簡単な手続きを済ませて、ハイヤーで第1ターミナルまで送ってもらい、待機していた全日空のコンシェルジュに誘導されて搭乗手続きとセキュリティ・チェックを済ませ、出国手続きに向かった。連休初日にも拘わらずそれほど混んではいなかった。出発ゲートは45番だから、辿り着くだけで十分な運動になる。第4サテライトのANA Lounge Firstに落ち着いて、MacBook Airを取り出し、LANケーブルをつないでメールを書いた。
 搭乗開始のアナウンスがあると思って安心していたら、いきなり「最終のアナウンス」が流れたので、慌てて45番ゲートに向かった。着いてみると、殆どの人が搭乗を済ませていた。機材はBoeing767-381ER、機体番号はJA8323である。トランクを棚に載せ、7Gの席に落ち着いて時計を見たら9時少し過ぎだったので、定刻より早く出発出来るかと期待したが、「数名のお客様をお待ちしています」というアナウンスがあり、出発したのは9時22分だった。滑走路34Rから離陸して、順調に上昇し、富士山を眼下に見ながら飛行した。関西空港や神戸空港もよく見えた。前日の同じ便で台湾入している林教授から「今日のフライトは、成田を離陸後1時間5分程のところで高知市上空を飛びました。桂浜や浦戸湾も見えましたよ。お暇なら探してみて下さい。」というメールが届いていたので、楽しみにしていたら、桂浜や浦戸湾は勿論のこと青龍寺の辺りもよく見えた。因みに、林教授は土佐の「いごっそう」である。彼は中国人や韓国人に対して、名刺の裏表を見せながら「林です。Linともいいます。」などと自己紹介する。裏表のある人間には見えないのだが・・・。
 順調な飛行を続け、台湾桃園国際機場の滑走路06に着陸し、C8ゲートに着いた。N25.045、E121.139と書かれている。到着時刻は定刻の11時55分より若干遅れて12時02分だった。この機場は、以前は「中正」と呼ばれていたが、昨年9月に「桃園」に変更された。「中正」は蒋介石の名前、「桃園」は地名である。入国手続きは実に簡単に清んだ。両替所で2万円を元に替えた。手数料が20元で、手取5594元だった。着陸直前の機内放送で、「空港の上空及び空港内は撮影禁止です。」と言われたので、空港を出るまで鞄からカメラを取り出さなかった。
 今回は、4人組の調査団であるが、私以外は25日に台湾入している。川嶋団長と濱名団員は、関西空港からJL653便で台湾入りするはずであったが、濱名団員だけNW69便に変更になったというメールが届いていた。3人は午前中、故宮博物院で中国の歴史を勉強し、昼食後台北から台湾高速鉄道「高鉄」に乗って嘉義まで移動し、私は高鉄の桃園站で彼等に合流することになっている。桃園機場から桃園站行きの巴士に乗ろうとして歩いていたら、出租汽車の客引きが何人も近付いてきたが、取り合わなかった。外に出てみると、気温は高いが、風が吹いているので不快ではない。巴士は30元で、20分ほどで桃園站に着いた。
 高鉄は今年の初めに開業したばかりとあって、真新しい站が原っぱの中にある。車票を買おうと自動券売機を見たら、台南行きの車票が残っているではないか。「嘉義は台南よりは手前だから、この車票があれば買わなくても清みそうだが・・・。」と様子を見ていたら、中年のオジサンが不安そうな顔をして自動券売機を見に来た。「これですか?」と車票を見せたら、途端に顔が綻んで「謝謝」を連発した。自動券売機で信用?を使って車票を買ってみて分かったが、領収書が出てから暫く遅れて車票が出てくる仕掛けになっている。先程のオジサンは、領収書が出てきたので、それだけ取って立ち去ったということである。自動券売機には「高鉄平日全面降価、最低64折起!」と書かれているが、星期六だから割引にならない。嘉義までの自由席が825元である。円による支払額は2887円だったから、日本の新幹線と比べれば随分安い。
 今回の訪問の日程は、濱名学長が調整して下さった。事前に濱名旅行社から送られてきた予定表に「14:28発 高鉄417号(左官行)で嘉義まで購入していただく。川嶋・林・濱名 14:06 高鉄台北発 14:28 高鉄桃園着(荻上先生車中で合流) 荻・川・林・濱 15:52 高鉄嘉義着」と書かれていたが、站の電光掲示板を見ると、417号は14時52分発で、14時28分発は471号である。列車番号と発車時刻のどちらを信じるべきか。更に、嘉義着15時52分という列車はない。尚、列車は全て「左営行」であり、「左官行」はないから乗り間違いの心配はない。安全のために、14時28分発の471号に乗ることにしたが、十分時間があるので、構内にある7-Elevenに寄ってみた。伊藤園の「お〜いお茶」、野菜ジュース、サンドイッチ、あんパンを買って、腹拵えをした。海外で「お茶がある」と喜んで買ったら、甘くて困ったことが何回もあったが、これは日本からの輸入品だから大丈夫である。Linさんに電話して、無事に桃園站に着いたことを知らせたら、「我々は昼を食べながらビールを飲んでいる。」とのことだった。「ビールを飲みながら昼を食べている。」だったかも知れない。
 ホームに降りてみると、ちらほら人がいる。「小心月台間隔」と書かれていて、黄色い線を少しでも踏み出すと、駅員が「ピーッ」と鋭い音で笛を吹く。自由席は9号車から12号車までである。彼等が何号車に乗って来るのか分からないが、取り敢えず10号車に並んだ。14時28分発の471号左営行はかなり混んででいたが、座ることが出来たので安心していたら、濱名学長が迎えに来てくれた。列車番号より発車時刻を優先したのが正解だった。彼等は11号車に席を占めていて、Linさんの隣の席を私のために確保しておいてくれたので、関西勢と関東勢が2人ずつ並んで座ることになった。列車の造りが余りにも日本の新幹線に似ているので驚いたら、Linさんが「日本製だから当然です。」と教えてくれた。列車番号400番台が各駅停車、100番台は板橋と台中のみに停車する特急である。
 新竹、台中に停車して、15時32分嘉義站に着いたが、迎えに来てくれるはずの曾徳興先生が見当たらない。濱名学長が電話したら、直ぐに飛んで来て、「2本前の列車かと勘違いしたので、車の中で待っていました。」とのことだった。2本前の列車は1時間前に到着するので、想像するに、曾先生は、事前に濱名旅行社から知らされた到着時刻が日本時間である可能性を想定して、念のために早く来たのではないだろうか。曾先生は上智大学大学院における濱名先生の後輩であり、現在は稲江科技曁管理学院の講師である。今回の調査では、全面的に曾先生にお世話になった。曾先生の車のフロントガラスには「立法院委員専用車輌證」が添付されている。「葵印の印籠」である。曾先生の運転する「葵印の印籠」付きの車で、工業団地の近くにある二階堂商務旅館に向かった。この旅館は、以前曾先生が勤務していた会社の社長が経営しているという。どう見ても日本式の名称であり、「Nikaido」と書かれているから、二階堂さんの経営かと思ったが、そうではないらしい。名前の通り、2階建である。209号室に通された。LANケーブルをつないでインターネットに接続出来ることを確認し、暫く休んでから、曾先生の通訳を頼りに、曾夫妻と曾先生の友人の3人の高校教員と夕食を食べながら懇談した。ここの自慢は懐石料理である。

4月27日(星期日):

 折角の星期日を有効に使わない手はない。台湾訪問は、濱名学長が3度目、私が2度目、他の2人は今回が初めてであるが、嘉義は誰にとっても曽遊の地ではない。曾先生からは事前に「阿里山へ日の出を見に行きませんか?」という提案を頂いていた。私は参加を希望したが、真夜中に起きて出かけることに躊躇いを感じる人もいて、計画は確定していなかった。阿里山森林鉄路で行く予定であったが、嘉義・阿里山間が運休中であることが分かったので、車で行くことになった。結局全員参加になり、1時出発と決まった。メールを読んだり、風呂に入ったりしたあと、少し横になっていたら、出発時間になったので、ロビーに降りて行った。一番若いLinさんが一番眠そうな顔をしている。
 昼間と同じく、曾先生の運転する「葵印の印籠」付きの車に乗って走り出した。先ず龍穏寺に寄り、ついでに隣にある7-Elevenで飲み物を調達した。「3時間かかる」と言われ、「それ程の距離ではないだろう」と思ったが、暫く走って、納得出来た。相当な山道である。殆ど車が走っていないのを幸いに、曾運転手は両車線を自由に使って軽快に走るが、「葵印の印籠」付きだから心配ない。途中にある集落では製茶業が盛んらしい。快走の結果、3時過ぎに海抜2216mの阿里山站に着いた。驚いたことに、駐車場はバスや乗用車で満杯である。やっと1台分の隙間を見つけて駐車することが出来た。夜店が並んでお祭りの様な賑わいであるが、相当な寒さである。曾先生が用意してくれた防寒具を身に着けて、温かいもので軽く腹拵えをした。
 ここから海抜2451mの祝山站までの6.25kmを火車に乗る。往復150元である。曾先生は何回も来ている曽遊の地なので、車の中で仮眠することにして、我々4人が3時40分発の火車に乗って日の出を拝みに行くことにした。随分大勢の乗客がいたが、動力車の前に数両の客車を増結したために、全員が着席することが出来た。たちまち窓が結露してしまう。4時05分に祝山站に着き、数分歩いて登れば展望台である。まだ日の出までは1時間以上あるにも拘わらず、既に大勢の人が集まっていた。先程までは下弦の月がきれいに見えていたが、いつの間にか雲が多くなってきた。真っ暗な中で、我が国の高等教育の在るべき姿などを論じながら日の出を待ったが、流石に寒かった。少しずつ明るくなり、雲海が見え始めたが、雲が晴れる様子はない。脚立に乗って何かを説明する若者がいた。FD研修会に招待してプレゼンテーションの指導をしてもらいたい位に、実に雄弁である。阿里山について説明しているらしいが、残念ながら殆ど理解出来なかった。しかし、最後に阿里山名産の「わさび」の宣伝をしていることだけはよく分かった。
 結局、日の目を見ることなく下山の時間になった。6時15分が最終列車で、それを逃せば歩いて下山しなければならない。雲海見物を堪能して、最終列車に乗って下山し、停車したので下車した。降りない客がいるので不思議に思っていると、火車が発車した。「来る時に乗った駅と違う」と気付いたが、時既に遅し。汽車は出て行く、煙は残る・・・。阿里山站の手前にある沼平站だった。已んぬる哉!何か嘆かん今更に。1.3km歩かなければならないが、気温が上がってきて寒くはないし、下り坂ではあるし、森林の中を歩くのも悪くはない。八重桜がきれいに咲いていた。
 仮眠していた曾先生と合流して、軽く早餐を食べた。曾先生が「神木を見に行きましょう」という。どこにあるかと思ったら、先程間違って降りた沼平站の近くである。先程歩いて降りた道を逆戻りし、沼平站の手前を左に折れて、神木見学コース遊歩道に入った。先程、沼平站で大部分の乗客が下車したのは、神木見物のためだったらしい。樹齢千年から三千年ほどの紅檜の巨木が「神木」として、1番から20番まで番号が付けられている。戦前に、ここの巨木が伐られて日本に運ばれ、明治神宮、靖国神社、橿原神宮などの鳥居や神門に使われたという。神木站には初代の神木の「残骸」が横たわっている。神木以外にも、象鼻木三代木福徳萬古樹など面白い古木がある。「我愛国家 我愛国旗 我愛国歌」と書かれた看板もある。
 日の出・夕霞・雲海・鉄道・神木が阿里山の「五大奇観」といわれるらしいが、我々は3/5を見たことになる。それにしても、海抜30mの嘉義站から海抜2451mの祝山站まで、高低差2400mを超える鉄道は「奇観」である。
 車で下山したが、今度は昨夜の様に「専用道路」ではないので、片側の車線だけを使うことが多かった。途中で本線から外れて、曾先生の知人が経営している?妹YaoMeiという山荘に寄って、台湾の田舎料理の昼食を食べた。
 再び本線に戻り、下山して行くと、昨夜は真っ暗で何も見えなかったが、植物相の変化や茶畑の様子などが面白い。途中から檳榔樹が目に付く様になった。山の斜面が檳榔樹林になっているところが多い。檳榔は中国語では「binlang」、学名はAreca catechuである。上品ではないものとして敬遠されることが多い様であるが、台湾の文化を語るときに檳榔を無視するわけにはいかない。どの様なものか試みる必要があると思い、一軒の檳榔屋に寄った。檳榔屋というよりは檳榔スタンドという方が適切である。曾先生以外は全くの初体験である。檳榔の種子「檳榔子」をキンマ(蒟醤、学名Piper betle)の葉に包んで、少量の石灰と一緒に噛むと、アルカロイドを含む種子の成分と石灰と唾液が混じって赤色になり、覚醒作用があるといわれる。口に入れて噛んで吐き出すのであるが、辛い様な苦い様な何ともいえない味である。私は、少し噛んだだけで胸が痛くなり、軽く目眩がしたので、直ぐに止めたが、他の3人は曾先生の真似をして、唾液が赤く色付くまで噛んでいた。覚醒作用があるので、トラックの運転手などが噛むというが、私にとっては覚醒作用どころではなく心肺機能に重大な影響を及ぼすらしい。それにしても、この山の中腹から下は檳榔樹林だらけである。
 昨夜寄った龍穏寺の裏にある吊橋に寄って、街に戻った。曾先生の豪邸にお邪魔してからホテルに戻り、出租汽車で街に出て、台湾料理の夕食を食べた。濱名学長が、実にてきぱきと、日本語で注文する。地元の人達に人気のある店らしく、狭苦しくてきれいではないが、実に安くて美味しかった。

4月28日(星期一):

 ホテルで早餐を食べ、「葵印の印籠」付きの車で出かけた。荷物は服務台に預けておいて、後ほど取りに戻ることにした。午前中に20km程北の雲林県斗六市にある雲林科技大学を訪問するのであるが、空模様が面白くない。濱名学長が「ネクタイが見つからない。」というので、「私はもう1本持っているのでお使い下さい。」といって渡した。「7-Elevenに売っているに違いない。」と何軒か寄ったが、結局見つからず、私のネクタイが有効活用された。「クリーニングしてお返しします。」といっていたが、見つからなくなった1本と共に台湾に貢献することになるかも知れないと思った。結果は、台湾に貢献することなく、クリーニングされ新品同様になって戻ってきた。文字通り「濡れ衣」である。走り出すと間もなく降り出した雨が、たちまち土砂降りになったので、7-Elevenで傘を買った。折り畳み傘は持っていたが、この大雨では役に立ちそうもない。頭に笠をかぶって自転車に乗っている人を見かけたが、なかなか便利だと思う。三度笠ならもっといいのではないだろうか。雨の日には小学生に三度笠の着用を義務付けたらどうかと提案したが、誰も賛成してくれなかった。
 それにしても、台湾には7-ElevenやFamily Martが実に多い。どこにいても見える範囲に必ずあるといえる。それよりも遙かにたくさんあるのが檳榔屋である。こんなに檳榔屋がたくさんあって商売になるのが不思議である。常設店も多いが、檳榔スタンドというべき簡単なものも多い。曾先生の話によれば、あの手この手で競争しているらしい。山には広大な檳榔樹林があるので、原料の供給には問題がなさそうであるが、それにしても大変な数である。讃岐におけるうどん屋の分布より、台湾における檳榔屋の分布の方が密度が濃いのではないだろうか。昨日から、皆「檳榔」の看板に鋭敏に反応する様になっていて、特に川嶋団長は左右の目が別々の看板を見ているのではないかと思われるほど鋭敏だった。車で走りながら、道路の左右にある檳榔屋の看板に鋭敏に反応するのは、単に動体視力が優れているからだけではなさそうである。川嶋団長の駄洒落の才能は知る人ぞ知るところであるが、檳榔反応は御本人も知らなかった才能かも知れない。台湾に関する案内書などを見ても、檳榔に関する解説は詳しくないが、台湾の文化を知るには檳榔を研究しなければならないと痛感した。檳榔屋、7-Elevenと並んで台湾で多いものはバイクである。「牛肉麺」の看板も随分目に付いたが、試みる機会に恵まれなかった。
 雲林科技大学に着いたときには小降りになっていた。国際会議廳に案内されて、驚いた。玄関前に「熱烈歓迎 荻上紘一部長御一行」と書かれた看板がたてられているではないか! この調査団の団長は川嶋教授であるが、事前に提出した名簿が五十音順に書かれていたことによるらしい。会議室でも名札が並べられていて、学長の隣に座ることになり、何とも落ち着かない。台湾には現在163大学が存在するが、その中の93校が科学技術系である。科学技術立国を目指す台湾の「国策大学」として16年前に設置されたのが雲林科技大学で、技専校院測験中心を併設している。台湾では、一般の大学の入試(「学科能力測験」(2月に実施)及び「指定科目考試」(7月に実施))は大学入学考試験中心が担当し、前者は約15万人、後者は約10万人が受験している。一方、科学技術系大学の入試「四技二専統一入学測験」(5月に実施)は技専校院測験中心が担当し、約17万人が受験している。どちらも、受験者は減少しつつあるという。科学技術系大学の入試状況について話を聞いた後、学内のレストランで昼食を御馳走になった。幸いにして雨が上がった。学生の卒業制作などを見ながら学内見学をしたが、58haあるというキャンバスは流石に広い。図書館には世界最大の羅針盤がある。
 ホテルに戻る途中にある呉鳳技術学院に、「免試申請入学」と書かれた看板があるのが目に付いた。「申請入学」は我が国のAO入試に相当すると思うが、「免試」というのが気になる。All OKということになっていないだろうか。
 ホテルへ戻り、荷物を受け取って、2台の車に分乗して高鉄の嘉義站へ向かう途中で、北回帰線標誌を見に寄り道した。北緯23度27分4秒51、東経120度24分46秒5の位置にある。第1代から第6代までの標誌が建てられているが、第6代が飛び抜けて大きい。第7代を建てるとすれば、どうなるのかしら。教科書では「北回帰線は23.5度」と教わったが、あれは近似値だったということを改めて認識した。
 曾先生の勤務する稲江科技曁管理学院を外から眺めて、嘉義站へ急いだ。稲江科技曁管理学院の英語名はToko Universityらしいが、「Toko」は「稲江」の日本語読みである。曾先生は最後まで我々に同行して下さることになっているので、一緒に高鉄に乗る。奥方に挨拶をし、3日間お世話になった「葵印の印籠」付きの車に別れを告げて、駅舎に入った。
 自動券売機で自由席の車票を買ったが、平日だから割引があり、台北まで775元である。円による支払額は2712円だったから、実に安い。16時36分発の422号が直ぐに来た。殆ど満席で、座れなかったが、次の台中で大勢降りて席が空いた。
 18時に台北站に着き、台北都会区大衆捷運系統MRTを乗り継いで南京東路站まで行き、地上に降りた。大きな交差点に立って、地図を見ながら「ホテルはどの方向か」と見当を付ける間もなく、濱名学長は自信を持って交差点を渡り、MRT沿いにスタスタと南方向へ歩いて行ってしまった。地図で確認出来た方向は東であるが、既に濱名学長の姿は見えない。暫く様子を見ていたら、誰も付いて来ないことに気付いたらしく、交差点まで戻って来て、こちらに向かって手を振っている。手旗信号で進むべき方向を伝え、大きな道路を挟んで並行に進み、次の交差点で合流することが出来た。濱名学長は理事長でもあり、行動力ある経営者として知られているが、面目躍如である。
 無事皇都唯客楽飯店に辿り着くことが出来、チェックインを済ませた。看板が紫色である。このホテルは事前に濱名旅行社が予約から支払いまで済ませているので、我々は名前を書くだけで済んだ。濱名氏は経営者として優れているのみならず、優秀な旅行社でもある。私以外の3人は、初日にこのホテルに宿泊している。25日にLinさんから「豪華なホテルで、部屋に果物が置いてある・・・」というメールが届いていた。私の部屋は901号室の角部屋であるが、何故か窓がない。他の3室には、今日も果物が置かれているが、私の部屋には置かれていない。視聴出来るTVチャンネルも他の部屋と比べて制限されていた様である。
 曾先生の友人が車で迎えに来て、出租汽車と2台で吉林路へ行き、阿美飯店に登楼した。店頭に献立の現物が並べられている中から、好みの物を注文してから登楼する仕組みである。曾先生の弟と従弟も加わり、賑やかな夕食会だった。
 夕食後、濱名学長に引率されて、タクシーで士林夜市へ行った。夜中だというのに、大変な賑わいである。ここに来るのが2度目だという濱名学長は様子が良く分かっていて、「これが美味しい」「これは安い」と次々と買い込む。自分が買うだけでなく、我々にも勧める。付き合いの良いLinさんはかなり色々なものを買っていたが、川嶋団長と私は何も買わなかった。川嶋団長によれば、濱名学長はとにかく物を買うのが好きで、ブランドに拘るのではなく、安く買うのが自慢らしいとのこと。それにしても、あれほど色々な物を買い込んでどうするのかと思うのだが、留守を守っている職員達へのお土産らしい。流石は経営者らしい気配りである。前回は、買い過ぎて持参した鞄に収まらなくなったために、ここで鞄を買ったとのこと。その店を見つけて、「この前ここで鞄を買った。これが安くて良いから買いませんか。」などと、店の販売促進に協力しているが、軽く聞き流した。「そうだ、印鑑を作っていこう。」といって1本注文し、直ぐに「これは安い。もう1本」と追加し、コンピューターにセットして機械が彫り始めた頃に更に「もう2本」ということになった。機械が彫り進むのを見ていると結構時間がかかりそうである。4本彫るのには2時間ほどかかるらしいと分かり、「明日の午後取りに来る」ということにして支払いを済ませ、ホテルへ戻った。殆ど日本語が分からないらしい店員を相手に、これだけの遣り取りを全て日本語で済ませる濱名学長を見ていると、「国際的なコミュニケーションは英語でなければ・・・」などという主張が空虚に聞こえる。伝えるべき中身と、伝えようとする意志が重要である。念のため書き添えておくならば、濱名学長は極めて英語に堪能である。
 ホテルに戻ってみると、部屋に果物が置かれ、日の丸の小旗が立てられていた。先程、出がけに、濱名旅行社が服務台にその旨、勿論日本語で、伝えてくれたお陰である。持参したMacBook Airを取り出し、LANケーブルをつないだが、インターネットに接続出来ない。嘉義の二階堂商務旅館では簡単につながったのだが・・・。仕方がないので、隣室のLinさんのWindowsパソコンでメールを読ませてもらい、文部省からの急ぎのメールに返事を書いた。部屋に戻って、無線LANによる接続を試みたら、つながることが分かった。考えてみれば、MacBook Airは、その名の示す通り、無線LANによる接続を前提に作られている。

4月29日(星期二):

 ホテルで早餐を食べて、待っていると、曾先生が真新しい高級車で迎えに来てくれた。曾先生は台北の地理には精通していないらしく、ナビゲーターの操作にも慣れていないので、急遽川嶋団長よりLinさんに「ナビゲーターを命ず」という辞令が交付された。ナビゲーターといえば、Linさんは小型のGPSデータ記録装置を常時携帯している。皆から「奥方に持たされているのか」と聞かれるらしいが、愚問である。Linさんの携帯する装置とLinさん自身は連動しているわけではないが、人間ナビゲーターといえなくもない。後席から「不当な」文句を言われながらも、Linさんはナビゲーターの職務を全うし、多少の回り道をしたものの、教育部つまり文部省に予定時間前に辿り着くことが出来た。
 日本と同じく、国の役所を訪問するのは簡単ではない。当然のことながら、入口にはゲートがある。曾先生が電話したら、秘書が出てきて、ゲートを開けてくれた。応接室に通され、高等教育司副司長の王俊権博士をはじめとする教育部の人々と懇談することが出来た。高等教育司副司長は、日本でいえば文部省高等教育局審議官に当たる。我々は、文部省の委託事業としての調査団ではあるが、外交ルートを通じて会談を申し入れたわけではなく、曾先生の人脈にお縋りした結果である。曾先生の人脈に敬意を表しつつ、12時まで懇談した。台湾でも、日本と同様に、国立、公立、私立の大学があるが、量的には私立大学の占める比率が高い。台湾では、多元入学と技術教育を高等教育の重点政策に掲げているが、日本と同様に高等教育の質の確保が重要な課題であり、そのために各種の評価システムを導入し、「一流大学」(国立10大学と私立2大学)の定員増を実施すると共に、大学の新設を禁止している。地方の優れた生徒を一流大学に推薦する「繁星計画」も導入されている。しかし、「選抜大学」(学生を選抜する大学)と「募集大学」(学生を募集する大学)とに2極化している状況は、日本や韓国と同様である。
 13時に天主教輔仁大学を訪れた。ここは、曾先生の母校である。早速うどんを御馳走になった。食事のあと、学長、教務長及び日本語文学系の3人の先生と懇談し、途中から3人の日本語専攻の女子学生が加わった。台湾の大学入試は、大学独自選抜「甄選入学」(推薦入学と申請入学)と、統一選抜「考試分発入学」が基本であり、「甄選入学」の比率の上限が40%と定められているが、実際には30%程度に留まっているという。「考試分発入学」においては、受験生は第1志望から始まって何十も志望を記入するとのことであるが、彼女らは、それぞれ第2志望、第6志望、第12志望で輔仁大学日本語文学科に入学したという。
 「甄選入学」と「繁星計画」においては「学科能力測験」(国文、英文、数学、社会、自然の5科目、2月実施)、「考試分発入学」においては「指定科目考試」(国文、英文、数学甲、数学乙、歴史、地理、物理、化学、生物から3〜6科目、7月実施)を受けなければならないから、台湾では「学力不問」の入学は無いのであるが、「18点でも入学出来た」という事実があるらしい。
 元教育部長の楊朝祥先生にお会いするために、16時30分に淡江大学を訪れた。楊朝祥先生は2000年まで教育部長を務め、現在は淡江大学教授である。これまた曾先生の人脈に敬意を表さなければならない。楊先生は、高等教育の質の確保に対して積極的で、「考試分発入学」の「足切り」が話題になり、教育部に電話をかけて確認する場面もあり、1時間半ほど懇談することが出来た。実は、私は楊朝祥先生とは初対面ではない2004年に淡水にある淡江大学で開催された中日両國高等教育改革國際學術研討會においてお会いしている。楊先生にその時のことを思い出して頂くことが出来た。
 ホテルまで送って頂いて、曾先生に感謝しつつ、再見ということになった。曾先生はこれから嘉義にお帰りになる。今回の調査に関しては、曾先生に負うところ実に大である。曾先生の幅広い人脈と献身的な協力に心より感謝したい。
 我々は、ホテルの隣にある「點水楼」に登楼して、「最後の晩餐」を楽しんだ。小籠包や海鼠など非常に美味しかったが、58度の高粱酒は強過ぎて飲み切れず、半分以上残った壜をLinさんが持ち帰った。皆が「老酒を飲もうか。」というのに対して、自分では一滴も飲まない私が「台湾で老酒を飲むのはよくない。」と異議を唱えた責任を感じている。晩餐の席上で、濱名旅行社が事前に立替払していた皇都唯客楽飯店の費用を精算した。3人が、元が残り過ぎない様に、円と元を混ぜて払ったので、旅行社は元が過剰になったのではないかと思われるが、高粱酒が利いて茹蛸状態の旅行社はさして気にならない様だった。
 濱名学長はLinさんと士林夜市まで印鑑を受け取りに行ったが、鞄は買わなかったらしい。

4月30日(星期三):

 濱名学長とLinさんは、朝早く起きて出租汽車で粥を食べに行った。昨日も同じことを試みたらしいが、開店していなくて空振りに終わったという。それにしても、濱名学長の行動力とLinさんの付き合いの良さには感服する。
 Linさんと共に9時40分にホテルを出て、巴士に乗り、11時15分に桃園機場に着いた。EVA航空のラウンジで休憩して、MacBook Airを取り出して無線LAN経由でメールのチェックをしてからNH1802便に搭乗した。来た時と同じC8ゲートである。機材も来た時と同じJA8323で、席は10Aである。13時06分に出発し、来た時と逆向きの滑走路24から離陸した。順調に飛行して、成田空港の滑走路16Lに着陸し、34番ゲートに着いたのが17時06分だった。預けておいた車が届くまで到着ラウンジで休憩して、メールのチェックをした。MacBook Airを無線LAN経由で活用したことはいうまでもない。
 帰宅して荷物を整理したら、7-Elevenの領収書が7枚あった。台湾は旅行者にとって、実に便利な国である。7-Elevenの普及状況は十分理解し、大いに有効活用したが、台湾文化において重要な意味を持つと思われる檳榔については、ごく表層を垣間見たに過ぎない。

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