2004.07.19

誤字等No.096

【どこにでも偏在する】(誤変科)

Google検索結果 2004/07/19 どこにでも偏在する:34件

今回は、誤字等No.095「ユキビタス」の続編です。

最近の流行語「ユビキタス」の「日本語訳」として各所で紹介されている「遍在」とは、「世界のあらゆるところに、あまねく行き渡って存在すること」を意味します。
一方、その対義語となる「偏在」は、「ある場所にばかり、集中的にかたよって存在すること」です。
両者の意味するところは全くの「逆」であり、この二つを取り違えては文章の意味が成立しません。
そのことに気づいていない人がいるようですが、そのままではいずれ恥をかきます。
得意げに「ユビキタス」の解説を展開しながら、そのすべてが「偏在」になっている文章などに出会うと、もはや「哀れ」としか言いようがありません。

表題として採用した「どこにでも偏在する」は、その間違いを端的に示す実例です。
類似の用例として、「あらゆるところに偏在する」も、同じくらいの頻度で使われています。

どこにでも」と言いつつ、「かたよって存在している」では、明らかに「矛盾」ですね。
一度や二度ならともかく、定常的に間違えているようでは、なんとも「間抜け」です。

この間違いは、単なる「不注意」ではなく、「言葉の意味を理解せずに文章を書いている」ことを示します。
なぜなら、「遍在」の意味をしっかり理解していれば、わざわざ「どこにでも」を書き足す必要がないからです。
誤変換がなかったとしても、「どこにでも遍在する」では「馬から落馬」と同様の「重複表現」になってしまいます。
にもかかわらず「どこにでも」を追加している理由は、その方が「分かりやすい」文になると思ったからでしょう。
すなわち、「遍在」という一語だけで意味を伝えられる自信がないのです。
そんな状態だから、「偏在」などと誤表記していても気付くことができないのでしょう。
だったら、そんな言葉は最初から使わない方が身のためです。

ユキビタス」の回でも書きましたが、「遍在」に「偏在」という対義語が存在することは、「致命的」な欠陥だと思います。
「書き言葉」として「字形が似ている」ことも問題ですが、「話し言葉」としては「発音が区別できない」ようでは使い物になりません。
それがどれほど問題か、他の言葉で考えてみましょう。

もし、「」と「」の読みが両方とも「みぎ」だったら。

「次の交差点、『みぎ』に曲がって!」
「『みぎ』って、どっちの『みぎ』だよ?」

…これでは、「みぎ」という言葉の存在価値はありませんね。
「対義語」でありながら同じ発音の言葉など、使いようがないことがお分かりでしょう。

ユビキタス」という聞き慣れない言葉を、「遍在」というさらに聞き慣れない言葉に置き換えたところで、たいした効果はありません。
もうひとつ新しい言葉の意味を覚えさせられる必要があるばかりでなく、勘違いまで誘発するようでは、かえって有害です。
新しい概念の解説をしたいなら、安易な逐語訳で何かを為したつもりになるのではなく、その本質を見極めた上で「自らの言葉」で表現することが必要です。

そういった意味では、「ユビキタス」を「偏在」とする間抜けさは無論のこと、「遍在」とする安直さもまた望ましいものではありません。
さらに、「ユビキタス・コンピューティング」と「ユビキタス・ネットワーク」の違いも理解せずに「ユビキタス」一語だけで分かったつもりになっている似非知識人たちも同様です。

ユビキタス」に関する説明は、いまやWEB上にあふれかえっています。
しかし、そのうちどれだけの人が、本当に「理解した上で」文章を書いているのでしょうか。
流行り言葉に踊らされ、虚勢を張ることばかりに懸命となっている人たちが、どれほどいることでしょうか。

それは、「カタカナ語」の乱用といった表面的な問題ではありません。
「言葉」を大事にする気持ちがあるかどうか、という心構えの問題です。
単に、外来語を漢字に置き換えるだけで済むようなものではないはずです。

個人がblogに書いている程度なら、たいした問題ではありません。
しかし、学者が、経営者が、役人が、「公的な文章」で言葉を大切にしない姿は、目に余るものがあります。
そのあたり、この国の「偉い人」たちがどれほど分かっているか、はなはだ疑問ですね。

[実例]

日本人とは、かくも「誤変換」に弱いのでしょうか。
このような「誤変換」が原因と思われる誤字等の品種を、「誤変科(ごへんか)」と命名しました。

[亜種]

広く偏在する:6件
あまねく偏在する:6件
どこにも偏在する:4件
どこでも偏在する:5件
世界中に偏在する:19件
あらゆるところに偏在する:30件
いつでもどこでも偏在する:3件

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