2004.09.12

誤字等No.109

【見らる】(過不科)

Google検索結果 2004/09/12 見らる:473件

過不科誤字等の第二回。前回の「文字余り」に対して、今回は「文字足らず」が題材です。
一般には「脱字」と呼ばれ、ある意味「誤字」という言葉と「同等」とも言えるメジャーな誤表記となります。
「文字余り」を意味する対義語の「衍字 (えんじ)」がほとんど知られていないことに比べると、まさに雲泥の差。
世の中には、「誤字衍字」という表現を使ったり「誤字脱字衍字」といった形で「仲間」に加えている人も、いることはいます。
とはいえその数は「誤字脱字」とは比べるべくもない少数派です。

これまで「誤字等の館」では、その名の通り「誤字」を中心として扱い、「脱字」は重視してきませんでした。
この「過不科」は、その「脱字」にもスポットライトを当てた品種となります。

世間一般で「文字が足りないこと」による誤表現として取り沙汰されることが多いのは、やはり「ら抜き言葉」でしょう。
一時期、「日本語の乱れ」として各種メディアでさんざん叩かれ、若者批判の道具としても用いられた「ら抜き言葉」。
極端に毛嫌いする人がいる一方、「言葉の進化」であるとして擁護する人もいるという対立も見られました。
今ではかなりの世代に定着し、「間違い」であると主張する声も小さくなってきている感すらあります。

確かに、その成立や利用場面には合理的な側面もあり、筆者も「ら抜き」を咎める気にはなりません。
ということで、今回のテーマは「ら抜き」ではありません。
ら抜き」とよく似ていますが、「」の代わりに「」が抜けてしまった「れ抜き言葉」とでも呼ぶべきものとなります。
無論、「ら抜き」のような背景など持たない、ただの「脱字」でしかなさそうですが。

ら抜き」になりやすい言葉としてよく例示されているのが、「見られる」という言葉。
試しに、どれほど「」が抜かれているのか、調べてみましょう。

見られる:830,000件
見れる:426,000件

さすが、約半数にも達する勢いです。
これほど広く常用されるようになってしまった言葉を否定するのは、並大抵の苦労ではありませんね。

さて、この「見られる」から「見れる」の変化に代わり、何を間違ったか「れ抜き言葉」になると…
それが今回の表題、「見らる」です。
(すみません、前置きが長くなりました)

かつて古典の世界では、現代の「られる」に相当する助動詞は「らる」でした。
時代によっては、「らるる」となったこともあります。
そのため、出典が古文であれば、「見らる」も「見らるる」も、その時代の文法に則った「正しい表記」となります。
従って、あえて「古文」で文章を書く人ならば、「見らる」は誤字となりません。
(「見られる」が混ざっていたりしたら、「統一性がない」ことになりますが)

現代でも、地方によっては古典的文法を継承する方言があるかもしれません。
伝統的に「見らる」という言葉遣いが定着している地域もあることでしょう。
そのような土着の言葉も、「誤字」の範疇からは除外されます。

対象となるのは、現代の標準日本語で書かれた文章。
そこに堂々と「見らる」が登場すれば、これはどうみても「脱字」でしかありません。
仮に、他人の「ら抜き」言葉を批判する真面目な文章で「見らる」などと書いてしまったら、これはもう「赤っ恥」となってしまうことでしょう。

ら抜き」は、いくつもの意味を持つ「られる」の代用ではなく、「可能動詞」の役割を持つ言葉として、支持者たちに重宝されています。
一方の「れ抜き」には、そのような効用があるでしょうか。
検索結果に登場した文例を見ていると、やはり「可能」の意味と思われる使い方が目立ちます。
しかし中には「自発」や「尊敬」と解釈のできる用法もあります。
どうやら、意味の統一といった作用は見られないようですね。

ら抜き」になりやすい言葉は、「見られる」以外にもあります。
それらにもまた、同様に「れ抜き」となっているものがあることでしょう。
そういった事例を、「亜種」の項でいくつかご紹介します。

[実例]

日本人とは、かくも「文字の過不足」に弱いのでしょうか。
このような「文字の過不足」が原因と思われる誤字等の品種を、「過不科(かぶか)」と命名しました。

[亜種]

着らる:5件
出らる:32件
起きらる:7件
食べらる:147件
投げらる:24件
逃げらる:19件

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