2005.06.05
誤字等の館 (ごじらのやかた) に寄せられる読者様のコメントに対して館主が答える「誤字等の談話室」、その第21弾です。
かなりの長文ですが、そのまま載せます。
喫茶店やコンビニの店員さんなどが使う「〜の方」「〜円になります」「〜円か ら」などの表現についての以下の指摘は、いささか言いすぎであり、侮辱的である と思います。// ―――――――――――――――――――― こういった「余分な修飾」は、普段の言葉遣いと「リズム」を変えるために必要と されているようにも見えます。 本人としては、精一杯「丁寧な言葉遣い」をしようとしている努力の結果なのかも しれません。 しかしその実態は、学習を放棄し、安易な模倣による適当な言葉遣いでごまかして いる怠惰の結果です。 それは、よく言われる「日本語の乱れ」といった次元の問題ではありません。 「敬語が苦手」といったレベルの問題でもありません。 「言葉」に対する「心構え」の問題です。 「認識」を改めるような機会に恵まれない限り、これら「妙な日本語」が修正され る可能性は低いでしょう。 ―――――――――――――――――――――――――――― 館主さんは権威のある人間には辛辣な言葉を使うと書いていましたが、店員さん たちはそういう仕事の人でしょうか? そもそも、「会計の方」や「〜円になりま す」などの表現は、その表現を用いなくても通じる、という程度のものであって、 「徴妙」などの誤字とは根本的に性質を異にするものです。にもかかわらず、「怠 惰」「ごまかし」「学習の放棄」などという最大限の侮蔑語をどうして用いるので しょうか?// むしろ、どうしてこういう表現が広範に用いられているのか、そこに何らかの合 理的な言語的・文化的理由があるのではないか、と探求してみるべきではないでし ょうか。以下、私の試論です。// まず、実際に、そうした仕事をすればわかりますが(私もそうした仕事の一つに 就いています)、「お会計は1000円です」と表現すれば、どうしても、つっけ んどんな感じがするのです(言葉に出して繰り返してみてください)。「お会計の 方ですが、合計で1000円になります」と表現することでずっと柔らかい感じ、 相手を尊重する表現になります。なぜでしょうか?// まず会計の後に「の方」という婉曲表現が入る理由を考えてみます。これはおそ らく、相手にずばりお金を請求することに躊躇をおぼえるために、「お会計の方」 というように、「の方」を入れることで、クッションを挟み、金銭の請求という露 骨さを和らげているのでしょう。そこに込められている想いは、「私たちの店をご 利用していただきありがとうございます。いろいろと至らない点もあったと思いま すが、精一杯のサービスをさせていただきました。さて、ぶしつけではあります が、お会計の方に手続きを移らさせてください」ということでしょう。「〜の方」 という言葉が入るのは、お金の代わりにサービスなどを提供した側の遠慮の気持ち が入っているものと思われます。// 「〜になります」の意味ですが、「1000円になります」や「こちらご注文の 品になります」という場合の「なります」は、「〜です」だけだと丁寧さが弱い、 かといって「〜であります」だと大げさすぎる(兵隊が敬礼して語る言葉みた い)。そこでその中間的丁寧語として「なります」が選択されたと推測します。/ / では、なぜ「なる」の丁寧語が選択されたのか? おそらくそこには、英語のよう にすでに目の前にある結果で表現するよりも、その結果にいたる過程を重視して事 態を表現する日本語の特徴が示されているのではないかと推測します。注文をして その品がくるまでに、あるいは会計に至るまでには、一定のさまざまな過程があっ たわけで、その過程の結果としてはじめて注文の品の登場と「なり」、会計と「な る」のです。このような過程を重視した表現を用いることで、お客様に対する店の 側の尊重姿勢を示すことになるのではないかと推測します。ハイこれがおまえの注 文した品だよ、はい1000円だよ、と目の前の結果をぽんと差し出すのではな く、その結果にいたる長い過程を経て、今のこの注文の品や会計額に「なる」のだ ということを示唆する表現を用いることで、お客様たる相手との関係をより人間的 で配慮のあるものにしようとしているのではないか、と推測します。// 次に、お金を預かるさいに「〜から」を用いることに関してですが、実際に「か ら」を除いて「1000円お預かりします」と言うと、あたかも何か一まとまりの 物体としての「1000円」を預かるようなニュアンスが出てきて、少し違和感が あります。ちょうど「かばんをお預かりします」「帽子をお預かりします」のよう な。しかし、お金というものはそうした物体的存在ではなく、一定の金額の記され た記号的な存在です。それは特定の額である必然性はなく、実際に購入した金額以 上のお金でさえあればいくらでもいいわけです。そうした量的連続性や、質的輪郭 の曖昧さをもった存在としてのお金を預かるさいには、「〜から」と表現すること で、そうした曖昧さの中に区切りを入れているのです。// また、「〜まで」と言わず「〜から」というのは、お客様である相手を尊重し、 敬意を表するという文化的理由にもとづいています。「〜まで」と言えば、それ以 上出せないかのようなニュアンスを帯びますが、「〜から」ということで、それ以 上の大きな額を出そうと思えば出せるが、今日はこの額から出しておくのだ、とい うニュアンスが生じることになります。つまり、相手をたてる役割をしているので す。// このように、なるほど、「〜の方」も「〜になります」も「〜から」も使うこと なく、相手に意志を伝えることはできますが、そうした表現を使うことで、単なる リズムでも語調でもなく、お金のやり取りにまつわる露骨さを和らげ、お客様を尊 重するというニュアンスをも伝えているのです。豊かな言葉とはそういうものでし ょう。// このいわゆる「店員用語」にけちをつける人は、おそらく、そうした仕事につい たことのない立派な人たちなのでしょう。相手に気を使わせることは平気でも、自 分が「お客様」に対して常に笑顔を絶やさず最大限気を使わなければならない立場 に置かれたことのない人なのでしょう。だから、こうした配慮を持った表現を、無 駄で余計な表現だと思うのではないでしょうか。// 私は、これらの「店員用語」は十分に日本語として成り立っているし、新しい丁 寧語として社会的に認知されるべきものと思っています。それは言葉を貧しくして いるのでも、乱しているのでもなく、むしろ豊かにしていると思います。// 反対に、なぜこのような言い回しが広く使われているのかを自分の頭で深く考え もせず、「1000円になりますって、いったい何が1000円になるのか」みた いなあげ足取りをして非難する風潮こそ、「怠惰」であり、「学習の放棄」であろ うと思います。また実際に、どちらが言われて丁寧な感じがするか、実践で試して みればいいのではないでしょうか?// いささか厳しいことを書きましたが、このサイトは全体としてとても非常に有意 義でおもしろいと思うので、今後ともがんばってください。
ご意見ありがとうございます。力作です。
別の観点を持つ建設的なご意見を頂けるのは、本当にありがたいことです。
自分ひとりだと、どうしても考える方向が偏りがちですから。
さて、世間一般では嫌われることの多い「店員用語」。
しかし、これだけ使われているからには、何か「使われる理由」があるはず。
一方的に「店員用語は思考停止」と決め付けるのは、確かに乱暴ですね。
「侮辱的」とのご指摘と合わせ、反省材料とします。
正直言って、これまで「店員用語」についてはあまり深く考えていませんでした。
私自身は別に気にならないので、用語自体を非難する気にもなっていません。
批判の対象は、その言葉の背景に見える(と思っている)「便利なツールとして安易に使う」姿勢でした。
「そうではない」というケースがあることは、もちろん理解できます。
全般的に、とても説得力のあるご意見だと思います。
「露骨さを和らげる」効果があるといったあたり、「なるほど」です。
「揚げ足取り」で憤慨するのは、確かに筋違いですね。
もし、ここまで考えた上で「店員用語」を使っているのだとしたら。
「学習放棄」なんてとんでもない話ですね。
でも、ひとつだけ気になる点があります。
それは、この理論が「店員側の視点」に立っていること。
視点を「お客様」の側に移してみましょう。
「店員用語」を不快に思う人や、気になって仕方ない人が大勢いるのは事実です。
どんな理由があろうとも、この現実を解決する役には立たないのです。
ご指摘の通り、そのような人たちは、「そうした仕事」に就いたことがないのでしょう。
しかし、そのこと自体は、別段責められるものではありません。
まさか、「そんな客など知ったことではない、自分は自分の理念を貫く」というわけにもいきませんね。
それは、「丁寧な言葉遣いをしたい」という思いに矛盾します。
言うまでもないことでしょうが、「丁寧な言葉遣い」をする最大の目的は、「お客様を不快にさせない」ことです。
「自己満足」ではありません。
まさにその点において、現時点での「店員用語」は「丁寧表現」たる資格に欠けているのではないかと私は考えています。
もっとも、「丁寧さ」は言葉だけで決まるものではありません。
店員が、本当にお客様のことを考えて、丁寧な態度を貫いているのなら。
マニュアルに従うだけの機械的所作ではなく、自らの頭で考えながら言葉を選んでいるのなら。
その上で使う「店員用語」なら、お客様も不快に感じないかもしれません。
便利な小道具として頼るのではなく、きちんと考えて使う人が主流となれば。
その思いさえ伝われば、無分別に「店員用語」を非難する人も減ります。
その段階になってはじめて、「店員用語」は「丁寧表現」として認められる存在となれるのではないでしょうか。