2006.06.18

【誤字等の雑記帳 2】

日本語についての話題を、とりとめもなく書き連ねるコーナー「誤字等の雑記帳」、その2です。
対象は「誤字」に限定しません。
厳密な調査や検証に基づく論理を展開するわけでもありません。
ただ、思いつくままに。
当方、言語学の専門家ではありませんので、「浅はかさ」にはご容赦を。

[ちげーよ]

Google検索結果 2006/06/18 ちげーよ:117,000件

違うよ (ちがうよ)」と言うべき場面で、「ちげーよ」と発音する若者がいます。
「間違った日本語」あるいは「日本語の乱れ」として、方々で糾弾されています。
若者たちを「日本語も正しく使えない愚か者」として蔑む材料にすら使われています。

しかし、考えてみてください。
違うよ」が「ちげーよ」に変化する理由は、本当にないのでしょうか。
理由がなければ、なぜこれほど現実に使われているのでしょうか。

なにごとにも、「理由」はあるのです。
その背景を想像することもなく、一方的に「否定」して満足する人たち。
そんな人こそ、本質を理解しない「狭量」な人間と言えるかもしれません。

まず、類例を探してみましょう。
同じような若者言葉に、「なげーよ」があります。
これは「長いよ (ながいよ)」からの変化です。
延々と続く校長先生の演説に辟易して、「話、なげーよ」とつぶやく生徒の姿。
想像できることと思います。
同様の変化を適用すると、「高い」は「たけー」になり、「近い」は「ちけー」になります。

注目すべきは、これら「長い」「高い」「近い」がすべて「形容詞」であることです。
対する「違う」は、「動詞」です。
「形容詞」と同じ変化は適用できません。
「長い」が「なげー」になっても、「違う」が「ちげー」になる説明にはなりません。

一般的な「ちげーよ」糾弾派の思考は、ここで止まります。
この時点で「ちげーよ」が「間違い」であるという確証を持ち、攻撃態勢に入ります。
違う」が「ちげー」になるなら、「貰う (もらう)」は「もれー」になるのか?
こんな滅茶苦茶な変化、有り得ない!…と。
しかし、そのような考え方は、いささか単純すぎると言わざるを得ません。

違う」は確かに「動詞」です。
しかし、一般的な動詞とは異なる特徴があります。
それは、動詞でありながら「動作」を示していないことです。

違う」の意味は、他と比べて異なっている状態、差がある状態のこと。
すなわち、「動作」ではなく「状態」を示す動詞なのです。
この点を考慮せず、「貰う」のような普通の動詞を持ち出すのは詭弁です。

日本語には、「状態」を表す品詞として「形容詞」と「形容動詞」があります。
「有る」「居る」など、「動詞」でも状態を表すことができますが、その種類は僅かです。
形容詞の膨大さとは、比べ物になりません。

違う」という言葉も、実は「動詞」である必然性がありません。
実際、「違う」に相当する英語「different」は「形容詞」です。

ちげーよ」と発音する若者が、この「形容詞」を望んでいると考えたらどうでしょうか。
「違っている」という状態を表すために、「動詞」ではなく、より直感的な「形容詞」を必要としているのなら。
ちげーよ」を「動詞」ではなく「形容詞」として解釈することで、その存在理由が説明できるのです。

原型となる形容詞は、「違い」です。
「差異」を示す名詞形としての「違い」ではありません。
「長い」や「高い」などと同じ、形容詞の終止形としての「違い」です。
この場合、「違い」のイントネーションも、「長い」と同じになるでしょう。

違い」を「形容詞」として扱うことさえできれば、「ちげー」に変化する理由は説明できます。
それは、「長い」が「なげー」になる変化と、まったく同じですから。

これが、「ちげーよ」の誕生した経緯だと考えれば、辻褄が合います。
だとすれば、「ちげーよ」は決して、理由もなく生まれた「でたらめな」言葉ではありません。

ちげーよ」と発音する若者たちの日本語は、「乱れている」のとは違います。
「different」に相当する「違い」という「形容詞」を作り出し、一般的な方式に則って音韻変化させているだけなのです。

違い」という形容詞の存在を認めると、他にもいろいろな表現が説明できます。
違くなる」「違かった」「違ければ」などの言い方です。
これらは、「違う」という「動詞」を基準として考えれば「間違い」とされる言葉遣いです。
が、すべて形容詞「違い」の活用形として解釈可能です。

違いの程度を示す「違さ」という言葉も、使われ始めています。
これも、「長い」に対する「長さ」と同様、形容詞の名詞形と認識できます。

これらの例は、「違い」という形容詞を、通常の日本語文法に忠実に従って活用させた言葉と言えます。
「間違った日本語」のはずなのに、これらの言葉が実に広く使われている理由は、ここにあります。

唯一、終止形である「違い」だけは「形容詞」としての地位を得ていません。
既存の、「違い」という「名詞」の存在を押しのけることができないためでしょう。

その感覚もまた、若者たちがわざわざ「ちげー」と音韻変化させて使う原因のひとつと言えます。
違い」のままでは形容詞として扱えなくても、「ちげー」に変化させれば事情が変わります。
変化しない名詞との差異が生まれることにより、「ちげー」が「形容詞」であることを明確に示せるのです。

日本語の文法を知らない愚か者?
いえいえ、とんでもない。
ある意味、日本語の「コツ」と呼べるものを、しっかり理解しているとも言えます。

ただし、勘違いしてはいけません。
現代標準語には、「違い」という「形容詞」は実在しません。
日本語の「変化」の中で、いずれ承認される時代が来るかもしれませんが、現時点では「存在しない」言葉です。
その存在にどれだけ合理性があろうとも、ないものはないのです。
これが事実です。

私が、ここまでの記述で「ちげーよ」を使う人を「若者」に限定してきたのも、それが理由です。
ちげーよ」は、社会のルールに縛られない若者にだけ許された特権と言えます。
「大人」になった瞬間、「間違い」は「間違い」として、非難されることを覚悟しなければなりません。
それが社会のルールです。

ちげーよ」という言葉が使われる背景は、理解できました。
しかし、それが現時点の「正しい日本語」から逸脱していることは、否定できません。

「大人」には、このような言葉を「公的」な場面では使わない自制心が、必要とされるのです。
同時に、私的な場面での「ちげーよ」を言下に否定しない寛容さも、「大人」の条件と言えるかもしれませんね。

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