2005.02.18

誤字等No.130

【出る釘は打たれる】(取違科)

Google検索結果 2005/02/18 出る釘は打たれる:8,610件

出る釘は打たれる
かなり、よく使われることわざです。
「高木は風に折らる」など、いくつかの類例もあります。

主に、「あまり出すぎた真似をすると、人から非難される」という戒めとして使われる言葉です。
「他の人より才能に恵まれた者は、嫉まれ、憎まれる」という解釈もあります。
近頃では、日本式の「横並び根性」や「事なかれ主義」を批判する用途にも使われています。
あまり、良い印象のある言葉ではありません。

ちゃんと打ち込まれずに、頭が飛び出ている釘があったとしたら、確かに危ないですね。
気付いた誰かが、すぐに金槌を持ってくるかもしれません。

このように、「ことわざ」として成立しているように見える言葉ですが、本当にそうでしょうか。
もしかして、「出る杭は打たれる」と間違えていませんか?

確かに、今では「出る釘」の方も「ことわざ」として通用するだけの知名度を持っています。
出る杭」「出る釘」のどちらも、実在のことわざとして認める見方もあるでしょう。
出る釘」を「誤字」と断定するのも、いかがなものかとは思います。
しかし、ここ誤字等の館では、あえて「出る釘」を「誤字等」のひとつに列しました。
その理由は、二つあります。
ひとつずつ、解説しましょう。

前述のように、このことわざの本来の形は「出る杭は打たれる」です。
これが「」に変わったのは、「」と「」の取り違えと見ることができます。
どちらも「打ち込まれる物」であり、発音も似ています。
現代の一般人にとっては、「」よりも「」の方が身近であることに疑いはありません。
」がこれだけの勢力を獲得しているのも、「言葉の進化」として見れば自然なことなのでしょう。

しかし、これはただ「」が「」に変わっただけではありません。
この変化によって、実はことわざ自体の意味も、微妙に変わってしまっています。

」とは、支柱や目印とするために地中に埋め込む棒であり、大抵は何本かを並べて立てます。
その際、杭の高さがきれいに揃っていないと不都合なため、他より飛び出た杭があればその頭を叩き、他の杭と同じ高さになるようにします。
すなわち、「打つ」のは「微調整」のためであり、その目的は「他の杭と揃える」ことにあります。
これが日本人独特の「横並び指向」にマッチした結果、「集団から外れた者」への戒めとなります。
すなわち、このことわざの主旨は「周囲との違い」にこそあります。
」が1本だけ立っている状態では、出るも出ないもありません。

一方、「」はどうでしょうか。
釘の利用目的は柱や板などを接合、固定することであり、しっかりと打ち込まれてこそ目的を達するものです。
(壁に途中まで打ち込んで物を掛けるために使うこともありますが、このような使い方は例外とします)
頭が飛び出した状態の釘は危険であり、また接合の役目も確実に果たすことはできません。
すなわち「出る釘」とは「施工不良」の状態であり、「修正」のために打たれることになります。
ここには「他者との比較」は存在しません。
たとえ1本だけでも、「出る釘」なら打たれるのです。
「周囲との比較」という観点が抜け落ちていること、それが「変化」の実態です。

このように、「」と「」では、言葉の意味に違いが生じます。
果たして、「出る釘」は「出る杭」の代わりになっているのでしょうか。
私には、そうは思えません。
このことわざが使われる場面は、その多くが「他者との比較」が論点となっているように見えます。
ならば、ふさわしいのは「」ではなく「」のはずです。
このような背景を考えることなく、安易に「」を使うのは、おすすめしません。
これが、「出る釘」を誤字とした第一の理由です。

もっとも、パチンコ台の「」であれば、高さを揃えることも必要。
そのあたりから連想して、「」から「横並び」の意識を持ち出すことも不可能ではありません。
が、一般的ではありませんね、この解釈は。

さて、「出る杭」にせよ「出る釘」にせよ、単体で使われるだけとは限りません。
少し変形させたバリエーションと組み合わせて使われることも多々あります。

そのひとつが、「出ない杭は腐る」というもの。
」の場合は、「出ない釘は錆びる」となります。
抜かれる」「捨てられる」などに変わることもあります。
いずれも、示すところは同じ。
しっかり自己主張のできない人間は成長しない、あるいは置いていかれる、ということです。

もうひとつのバリエーションが、「出すぎた杭は打たれない」です。
中途半端に目立つからいけない、どうせなら誰もが一目置かざるを得ない存在になれ、という感じでしょうか。

どちらも、含蓄のある良い言葉です。
これらをセットにして、ある種の「人生訓」を表現しようとする人もいます。
特にビジネス系の啓蒙書の類には、あきれるほど大量に登場します。

確かに、打たれることを恐れてばかりでは成功はあり得ません。
どんな世界でも、成功した人物はことごとくが「出すぎた杭」だったはずです。

しかし、この言葉を「人生訓」として語る人々には、奇妙な共通点があります。
それは、彼らのほとんどが、まるで「自分自身が編み出した名言」であるかのように意気揚揚と使っていることです。
それがどれほど「手垢の付いた」表現であるかなど、微塵も気にかけている様子はありません。

どんなに成功を収めた人物であっても、自分自身を指して「出すぎた杭」と評するのは、ただの「自慢」です。
そんな状態で「カッコイイことを言った」と悦に入っている姿は、褒められたものではありません。
まして、それが「」だったら…

なるほど、木製の杭が地中に埋まっていては、確かに腐りやすいでしょう。
高くそびえ立つ杭なら、その頭を打つのも容易ではありません。

では、釘だとどうでしょうか。
出ない釘」は、しっかり打ち込まれている釘ですから、ちゃんと自らの役目を果たしています。
わざわざ「抜かれる」理由など、ありません。
出すぎた釘」は、ほとんど打ち込まれていない釘ですから、自らの役割をまるで果たしていません。
もう一度打ち直されるか、あるいはそれこそ抜かれて捨てられるか、でしょう。
この二つを「」の代わりに使っても、説得力などないはずです。

言葉の意味を良く考えず、「借りてきた言葉」を鵜呑みにし、まるで「自分が考えた」かのように披露する。
そんな態度でどれほど高尚なことを述べたところで、底が知れるというものです。
そして、そんなときに限って、安直に「」が使われていたりするものです。
出る釘」を誤字扱いした第二の理由は、ここにあります。

どこかで聞きかじっただけのフレーズでいかに飾り立てようとも、それは決して「名言」にはなりません。
本当に価値のある「格言」とは、背後にその人の「人生」があるものです。
うわべだけの言葉に踊らされることなく、本質を見極める目を持てるようになりたいものです。

[実例]

日本人とは、かくも「別の言葉との取り違え」に弱いのでしょうか。
このような「取り違え」が原因と思われる誤字等の品種を、「取違科(とりいか)」と命名しました。

[亜種]

出るクギは打たれる:107件
出る食いは打たれる:15件
出る杭は撃たれる:21件
出る釘は抜かれる:42件
出る釘は叩かれる:668件

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