2006.07.17

誤字等No.156

【袖触れ合うも多少の縁】(取違科)

Google検索結果 2006/07/17 袖触れ合うも多少の縁:214件

袖触れ合うも多少の縁。
道で人とすれ違い、袖が触れ合うようなことでも、それは多かれ少なかれ「縁」である。
人の「縁」は貴重なものであるから、出会いは大切にしなければならない。

……という解釈で納得している方、ご注意を。
これが「ことわざ」だと思ったら、大間違い。
その正体は、ことわざから生まれた「誤字等」です。
本当の意味を知らずに使っていると、大恥をかくかもしれませんよ。

「ことわざ」として使われる本来の言い回しは、「袖振り合うも多生の縁」です。
最大のポイントは、「多生」の部分。
このことわざの「本質」と言える言葉です。
それを知らずに「多少」と表記しているのは、ただの誤変換ではなく、言葉の取り違えと言えます。

多生」とは仏教の言葉で、この世に何度も生まれ出ること。
生と死を繰り返す「輪廻転生」「生まれ変わり」の思想です。

道で人とすれ違い、袖が触れ合うようなことでも、それは何度も繰り返された過去の世の縁によるもの。
すべては理由のないただの「偶然」ではなく、縁によって定められた「必然」である。
仏教の基本理念である「因果応報」につながる考え方と言えます。

私は仏教家ではありませんので、それ以上詳しいことは理解していません。
仏教の本物の教えは、もっと深いものなのかもしれません。
しかし、「多少」と「多生」の違いを説明するだけなら、これで十分でしょう。

これを「多少」と書き間違えてしまう原因は、明らかです。
多生」という言葉自体が、知られていないのです。
仏教とは無関係な「一般の会話」に登場するような言葉とはとても言えませんから、知られていないのも無理はありません。

現在一般的に使われている言葉の中には、もともと「限られた世界」だけで通用する「専門用語」的な存在だったものがあります。
仏教だけに限っても、「一蓮托生」や「醍醐味」など、一般用語としても使われている言葉の数は多いものです。

ただし、その際、多くの言葉は意味がいくらか変化します。
特に「他力本願」という言葉は浄土真宗の教えの根幹に関わる仏教用語ですが、一般的には「他人任せ」という程度の意味で使われています。
もともとの意味(阿弥陀様が菩薩から如来になるときに立てた衆生救済の誓願によって成仏すること)からは、かなりかけ離れています。

このような「変化」は、言葉が広く浸透するために重要な役割を果たします。
意味が変化してはじめて、「仏教」に関する詳細な知識を持ち合わせない人々であっても「使える」言葉になるからです。
元の意味のままであれば、「他力本願」が一般の会話に登場することなど、あり得なかったことでしょう。

それに比べて、今回話題にしている「多生」はどうでしょうか。
まだまだ、「一般用語」としての地位を得ているとは思えません。
その言葉を知らない人が、発音が同じで平易な日常語である「多少」に引きずられるのは当然のことと言えます。

ところで、このことわざに関しては、もうひとつ勘違いされている例があります。
それが、「多生」を「他生」と表記した「袖振り合うも他生の縁」です。
多少」が間違いであることを知っていても、この「他生」が正解だと思っている人は非常に多いです。
Googleでの検索結果を見ても、「多少」にバツを付けて「他生」をマルにしている解説のなんと多いことか。

他生の縁:73,400件
多生の縁:52,700件
多少の縁:20,700件

他生」でも完全に「間違い」と言い切れるわけではないのですが、「他生」と「多生」には明確な違いがあります。
それを知らずに「他生」を正解と信じる人々の知識は、いかにも「中途半端」と言わざるを得ません。

他生」もまた仏教の言葉で、「今生 (こんじょう)」に対する「前世」と「来世」を示します。
ことわざとしての解釈は「多生の縁」とほぼ同じですが、この場合は「前世」のみに限定する必要があります。
「来世の縁」では因果律が崩れてしまいますので、「因果応報」につながりません。

意味がまるっきり変わるわけではありませんので、「他生」を「正解扱い」することも可能でしょう。
しかし、他人の「多少」を訂正するなら、本当は「多生」であることを知っておきたいものです。

この「袖振り合うも多生の縁」に関しては、「多生」の部分以外にも「揺れ」が存在しています。
「ことわざ」としての言い回しが固定されていない、珍しい例と言えます。
その「揺れ」とは、前半の「振り合う」の部分。
ここには、数多くのバリエーションが存在します。

今回の表題に使っている「触れ合う」も、そのひとつ。
解釈としては、「袖振り合う」も「袖触れ合う」も一緒です。
今の世の中、振れるほどの袖がある衣装を着ている人は限られますから、「触れ合う」の方がわかりやすいですね。

また、「袖振れ合う」という表記もあります。
読み方は「触れ合う」と同じ「ふれあう」でしょう。
この場合、「触れ合う」のつもりで誤変換しているのか、「振り合う」の活用形なのかは不明です。

他にも、「擦り合う」「擦れ合う」を使う場合などがあります。
これらの「ひらがな」バージョンを含めれば、表記の種類は結構な数に達します。

ひとつ特別なものとしては、「袖触り合う」という表記があります。
本来は、これが「仏教用語」として正しい形なのだそうです (読者様から情報を頂きました)。
おそらく、「触れる」と「振れる」の混同から「触り合う」が「振り合う」に変化したのでしょうね。

前半が「触れ合う」でも「擦り合う」でも「触り合う」でも、言葉の解釈に大きな影響はありません。
重要なのは、後半が「多生」になっていること。
そうではなく、「多少」と表記してしまったものは、すべて間違いと判定できます。

では、それら変異系の検索結果を見てみましょう。

袖振り合うも多少の縁:184件
袖振れ合うも多少の縁:4件
袖触れ合うも多少の縁:214件
袖触り合うも多少の縁:28件
袖擦り合うも多少の縁:56件
袖擦れ合うも多少の縁:44件

袖振りあうも多少の縁:7件
袖振れあうも多少の縁:3件
袖触れあうも多少の縁:22件
袖触りあうも多少の縁:0件
袖擦りあうも多少の縁:31件
袖擦れあうも多少の縁:0件

袖ふり合うも多少の縁:4件
袖ふれ合うも多少の縁:11件
袖すり合うも多少の縁:112件
袖すれ合うも多少の縁:0件

袖ふりあうも多少の縁:6件
袖ふれあうも多少の縁:463件
袖すりあうも多少の縁:104件
袖すれあうも多少の縁:7件

「縁」を「円」と誤変換したものや、「縁」を「緑」と勘違いした似字科の亜種もありそうです。
「袖」をひらがなに変えたものも、きっとあるでしょう。
その他、言い回しを微妙に変えたパターンも含めれば、相当な種類がみつかると予想できます。
が、きりがないので、ここでは止めておきます。

「ことわざ」「格言」の類を用いると、自分の言葉に「重み」を持たせることが手軽にできます。
しかし、その使い方が間違っていた場合、いつわりの外見は簡単に崩壊します。

「どこかで聞いた」だけの状態で安易に使わず、その言葉の「本当の意味」を知ること。
簡単なようで、実はとても難しいことです。
だからこそ、その手間を惜しむかどうかが、言葉を操る「実力」を大きく左右することにつながるのです。

[実例]

日本人とは、かくも「別の言葉との取り違え」に弱いのでしょうか。
このような「取り違え」が原因と思われる誤字等の品種を、「取違科(とりいか)」と命名しました。

[亜種]

袖振り合うも多少の円:3件
袖振り合うも多少の緑:2件
そでふれあうも多少の縁:1件
袖触れ合うのも多少の縁:21件

※ 2006/10/22
ご指摘により、「触り合う」に関する部分の記述を変更しました。

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