2006.09.10

誤字等No.158

【ご拝読】(取違科)

Google検索結果 2006/09/10 ご拝読:38,600件

今回は、「ビミョーな言葉研究所」の記事(第193号)を元ネタにしています。

自分宛に届いたメールに「ご拝読ください」と書かれていた場合、どのように解釈すればよいのでしょうか。
あるいは、文末に「ご拝読ありがとうございます」と記載されていたら、どう受け取ればよいのでしょうか。

頻繁に見かける表現ですが、これはかなり「尊大」であり、「無礼」であり、「危険」な言葉です。
知らずに使っていると、大変なことになりかねません。

日本語には、「敬語」という概念があります。
人間関係を円滑にするための、重要なスキルのひとつです。
しかし、「敬語」を正確に使いこなすためには、かなりの「知識」が必要です。

「近頃の若者は、敬語の使い方も知らん」なんて憤るご年配の方々も多いですね。
しかし、それは何も「若者」に限った話ではありません。
現実には、「完璧な敬語」を操る能力を持っている人など、ほとんどいないのではないでしょうか。
「間違った敬語」は、日本社会に広く深く蔓延しているのです。

正直、「正しい敬語」を使いこなすことは難しすぎる、と私は思います。
そのため、これまで「誤字等の館」では、「敬語の間違い」を取り上げることはありませんでした。

しかし、「敬語の間違い」は、文字通りに解釈すると「とんでもないこと」になる場合があります。
一見問題がないように見えても、実は大変な間違いである言葉。
何気なく使われているのに、実は非常に「危険」な言葉。
今回の表題である「ご拝読」は、そんな言葉だと感じ、とりあげてみる価値ありと考えました。

さて、本題に戻りましょう。
ご拝読ください」は、何が「間違い」なのでしょうか。
端的には、「拝読」が「謙譲語」であること、それが解答です。

国語の時間に習うことですが、「敬語」には以下の三種類があります。

尊敬語:相手を敬う言葉。
謙譲語:自分をへりくだる言葉。
丁寧語:敬意を表するための丁寧な言葉。

このうち、「尊敬語」と「謙譲語」には、「話者」と「対象」に明確な「上下関係」があります。
自分を基準として、相手を「高い位置」に置くことで敬意を示す手法が、「尊敬語」。
相手を基準として、自分を「低い位置」に置くことで敬意を示す手法が、「謙譲語」。
自分よりも相手が上、という位置関係は変わりませんが、相手を上げるのか、自分が下がるのかという違いがあります。

すなわち、「尊敬語」は「相手」の動作や状態を示すために使い、「謙譲語」は「自分」に関するものに使うことが必要です。
もしも、その「対象」を間違えたら、どういうことになるでしょうか。

「自分」に対して「尊敬語」を使ったなら。
相手を基準として、自分を「高い位置」に置いたことになります。
それは、相対的に「相手を見下す」態度に他なりません。

また「相手」に対して「謙譲語」を使ったら。
自分を基準として、相手を「低い位置」に置いたことを意味します。
これはもう、「蔑視」の視線そのものです。

ここで冒頭の用例「ご拝読ください」を見てみましょう。
相手の「読む」行動を、「謙譲語」を使って要求しています。
「自分」が「相手」よりも高い位置にいることを明示した態度です。
この文章から「丁寧さ」を取り外し、少々誇張すれば、こういうことになります。

「高貴なる余の有り難き文章を、崇め奉りながら読むがよい!」

なんと尊大なことか。
たとえ「皇帝」でも、ここまでの言葉遣いはできません。
ご拝読」がどれだけ「危険」な言葉か、ご理解いただけたでしょうか。

」を付けただけで敬意を示したつもりになっていたら、とんだ勘違いです。
いえ、むしろ「」がついていること自体が、「拝読」の立場を理解していない証拠です。
相手の行為を示すために「謙譲語」を使うこと、これが「大間違い」なのです。

すなわち、「尊敬語」と「謙譲語」の取り違え。
それが、この誤字等の正体です。

では、正しくはどのように表現すれば良いのでしょうか。
難しく考えることはありません。
「お読みください」で十分です。
「ご覧ください」でも良いでしょう。

どうしても「漢語」を使いたいのならば、「尊敬語」を選ぶ必要があります。
「ご高覧ください」あたりが妥当でしょうか。

拝読」と同じような立場の言葉は、他にもたくさんあります。
拝見」「拝聴」「拝借」「拝察」などなど。
これらはすべて、「謙譲語」です。
「相手の行動」に対して使ってはいけません。

ただし、「例外」はあります。
話の「聞き手」が、その行動の「対象」でないときは、「聞き手」に謙譲語を使うことができます。
明らかに「上位」に位置する「第三者」がいれば、話者自身が「自分を高める」意味合いにはなりません。

例えば、神社仏閣の場合。
訪れた人に「拝観」を要求することは間違いではありません。
さすがに、祀られている神仏よりも丁重な扱いを要求する人などいないでしょうからね。

いろいろと難しい「敬語」ですが、真に重要なのは、敬語を使おうとする「心」そのものです。
その気持ちがあるのなら、少なくとも「私的な会話」で多少敬語を間違ったところで大丈夫です。
そのような場面で些細な間違いをあげつらうことこそ、「無粋」というものです。

しかし、これが「仕事」あるいは「商売」となれば、話は別です。
一見、「懇切丁寧」な文章に見えても、よく見れば「大間違い」の含まれている文章。
それは、冷たく「機械的」な「本心」をあらわにしてしまいます。

表面的には丁寧で礼儀正しく見えても、実は冷たく無礼なこと。
人、それを「慇懃無礼」といいます。

「心」のこもっていない文章は、書き手の「真の姿」を「受け手」に伝えます。
うわべだけを取り繕っても、無駄です。
相手を見下ろした態度でこなす仕事が、「良い結果」をもたらすことなどありません。

「敬語」を使いこなすためは、「知識」が必要です。
しかし、それ以上に求められているのは、真に相手を敬う心があるかどうかです。

「敬語」を安易に使う前に、そのことを自問してみてはいかがでしょうか。

[実例]

日本人とは、かくも「別の言葉との取り違え」に弱いのでしょうか。
このような「取り違え」が原因と思われる誤字等の品種を、「取違科(とりいか)」と命名しました。

[亜種]

ご拝見:21,000件
ご拝聴:18,800件
ご拝借:917件
ご拝察:633件

※ 2008/12/03
このページにあった誤記をひとつ修正しました。 余分な文字がひとつ混ざってました。ご指摘ありがとうございます。

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