2006.11.12

誤字等No.159

【一人で爆笑】(取違科)

Google検索結果 2006/11/12 一人で爆笑:46,400件

ある日、とあるサイトに、こんな文章を見つけました。

面白いサイトを見つけたので、夜中に一人で爆笑してしまいました。

さっそく「一人で爆笑」を検索してみたところ、相当な数がヒットしました。
世の中、ひとりきりでも楽しい時間を過ごしている人たちがたくさんいるようですね。

でも、ご存知でしたか?
一人で爆笑」 は、できないということを。
原理的に、「不可能」なんです。

それは何故か。
爆笑」 の意味を調べてみれば、判明します。

【爆笑】 大勢の人がどっと笑うこと。また、その笑い。
(大辞泉より)

なんと、「大勢」いなければ「爆笑」 にはならないのです。
「一人」では「大勢」とは言えません。
一人で爆笑」 が「不可能」である理由、ご理解いただけたでしょうか。
たった一人で「大勢の笑い」を作り出すには、「分身の術」でも身につける必要がありそうですね。

つまり、「一人で爆笑」 したと書いている人たちは、「爆笑」 の意味を取り違えているわけです。
実際には、ただ単に「笑う」の強調表現として使っているに過ぎません。
「爆発的に笑う」といったような感覚でしょうか。
意味合いとしては、「大笑い」と同等かと思われます。

さて、ここで「爆笑」 という言葉が選ばれた背景を考察してみましょう。
爆笑」 がこれほど多用されるのには、何らかの理由があるはずです。
私は、それは「言葉のインパクト」にあると考えます。

「笑った」
「大笑いした」
「爆笑した」

この中で一番インパクトがある言葉は、「爆笑」 です。
「漢語」であることに加えて、「爆」という漢字そのものが持つ語感。
「腹を抱えて」「転げまわって」などといった修飾を使うこともなく、たった一語で「笑い」を強調することができます。
いくつもの表現を駆使する必要のない、きわめて楽で便利な選択肢です。
文章を「練り上げる」努力を要しない場面で多用されるのも、自然な成り行きと言えます。

さらにその背後には、言葉に「インパクト」を求める風潮、「強調の文化」があります。
その形成に多大な影響を与える要因のひとつが、氾濫する「バラエティ系のテレビ番組」です。

バラエティ系のテレビ番組は、「インパクト」が命です。
新聞や雑誌の番組欄で「人目を引く」ことができなければ、「視聴率」を得ることができません。
そのため、ありとあらゆる「強調」が日常的に利用されています。

出演者がちょっとでも涙ぐめば「号泣」。
わずかでも不快感を表明すれば「激怒」。
ほんの少しでも意外性があれば「驚愕」。
そして、一瞬でも笑いを取れば「爆笑」 。

それらの言葉にひかれて番組を見ても、実際に放映される場面は、大抵たいしたことはありません。
視聴者が「期待」していたとしたら、がっかりするかもしれません。

しかし人間の学習能力とは面白いもので、そのような「期待はずれ」にも、視聴者はすぐに「慣れて」しまいます。
テレビ欄の表記と実際の番組がかけ離れていたとしても、もはや視聴者は気にしません。
こうして「強調表現」に慣らされた人たちは、自ら「強調表現を常用する」ことにも抵抗感を持たなくなります。

一度そのような言語感覚が染み付くと、ささいなことでも「強調表現」を使いたがるようになります。
たとえ「ニヤリ」とした程度であっても、「爆笑」 と表現しないと「物足りない」と感じるようになってしまうわけです。
数ある「笑い」の表現の中で「爆笑」 が多用される理由のひとつは、このあたりにあるのではないでしょうか。

ところで。
よく、文末に (笑) などの表記を付ける人がいます。
以前の私は、これがよく理解できませんでした。

おそらく、この表記を最初に見たのは「座談会」の再現記事だったと思います。
そのときは、「ここで笑いが起きた」ことを示しているのだろう、と解釈していました。

その後、「座談会」ではない「普通の文章」で (笑) を見たとき、私はとまどいました。
そこにある文章は、書いている本人にとっては「冗談」のつもりなのかなぁ、と思わせるものでした。
しかし、はっきり言って、「面白い」と言えるほどのものではありません。
これを書いた人が「ここで笑いが起こるはずだ!」と確信しているのだとしたら、理解不能です。

しかも、(笑) が登場するのは一度や二度ではありません。
繰り返し、何度も、文末に (笑) が記されているのです。
なぜそうまで「笑い」を強要するのか、不思議でたまりませんでした。

その後、(笑) のバリエーションらしきものとして、(爆) なる表記も登場しました。
「俺は今、ものすごく面白いことを書いた! これを読んだ人は爆笑せずにはいられない!」

……ますます、理解不能です。
その揺ぎ無い自信の根拠は、いったいどこにあるのでしょうか。

結果的には、それは私自身の「勘違い」でした。
(笑) と書かれた場面で笑っていたのは、観客でも読者でもなく、文章を書いている「本人」だったのです。
私がそのことに気づく契機となったのは、「顔文字」の流行でした。

「(^-^)」「(^^;)」「(T^T)」などなど、多彩な顔文字を、文末に記載しまくる人たち。
これらの「笑顔」「冷汗」「泣顔」などは、「書いている本人の表情」を示しています。

そんな顔文字を眺めているうちに、私は気づきました。
あの (笑) が、「読者」の笑いではなく、「書いている本人」の笑いを意味していたことに。
私は「座談会」の印象から、「他人」の笑いだと思い込んでしまっていたのです。

冗談であることを明確にして、「深刻さ」を軽減するための笑い。
照れ隠しの笑い、苦笑い、そして、せせら笑い。

多種多様な「筆者自身の感情」が、(笑) の表記に込められていました。
それが、より分かりやすいビジュアルを手に入れた姿が、「顔文字」です。

そして私は、(爆) の意味にも思い当たりました。
それは、「爆笑」 ではなく、「自爆」の略なのではないか、と。
そう考えたとき、すべての謎は消え去りました。

つまらない冗談で場の空気を冷えさせる自分自身を笑い者にした、「自虐」の精神。
(爆) や (核爆) などを連発する人たちは、崇高なる「自己犠牲」の体現者なのでしょう。

話を戻します。
「爆」の文字は、それ自体が強烈なインパクトを持っています。
そのため近頃では、ものごとを極端に「強調」する際に、様々な場面で「爆」が使われることがあります。
ものすごく速い様子を「爆速」と表現したり、熟睡を超えた睡眠を「爆睡」と呼んだりする用法です。
人数に関係なく「笑い」を強調する表現として「爆笑」 が使われている現状も、根は同じです。

今はまだ、「爆速」や「爆睡」の扱いは「スラング」と変わりません。
しかし、「爆笑」 はそれらと違い、「普通の言葉」としての存在感を確立しています。
既に、人数にかかわりなく「大笑い」の意味で「爆笑」 を載せている辞書もあるかもしれません。
私自身、すべての辞書を調べてはいませんので、それはわかりません。

もしかすると「一人で爆笑」 は、もはや「間違い」とは言い切れなくなっているのかもしれません。
しかし、それでも、「爆笑」 の本来の意味が「大勢の笑い」であることは、知っておいて損はないでしょう。
大事な場面で「自爆」しないためにも。

[実例]

日本人とは、かくも「別の言葉との取り違え」に弱いのでしょうか。
このような「取り違え」が原因と思われる誤字等の品種を、「取違科(とりいか)」と命名しました。

[亜種]

一人爆笑:19,900件
ひとりで爆笑:760件
ひとり爆笑:628件
独りで爆笑:138件
独り爆笑:324件

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