4.百年戦争の再開
(1)権力闘争
1364年に摂政だった王太子は王位につきシャルル5世となりました。シャル
ル5世は後に賢明王と呼ばれるほどの名君でした。
彼は学問の振興のために図書館を建設し古典の蒐集を行いました。また、優秀な
人材を積極的に登用し、盗賊の首領であったベルトラン・デュゲクランを元帥にし
てフランスの領土を挽回しようとしました。ベルトラン元帥は見掛けによらず戦略
家としての頭脳を持っていました。そして、イギリス軍に占領された都市を次々に
奪還していきました。
しかし、フランス全土の解放を目の前にした1380年7月に元帥は陣中で病に
倒れ帰らぬ人となってしまいました。そのあとを追うように9月にシャルル5世も
亡くなりました。これが、フランスの不幸の始まりでした。
シャルル5世のあとを継いだシャルル6世は王妃の浮気・不倫に心を痛めついに
1392年に発狂してしまいました。宮廷はたちまち権力闘争の場となり、いつし
か王の従弟のブルゴーニュ侯ジャンを中心とした勢力と王弟のオルレアン侯ルイを
中心とした勢力の争いとなりました。
1407年11月、オルレアン侯ルイは子供を生んだばかりの義姉を見舞った帰
り道にブルゴーニュ侯ジャンの放った刺客に暗殺されてしまいました。こうして、
両家の確執は深まっていくばかりでした。それでも、ブルゴーニュ侯ジャンと跡を
継いだオルレアン侯シャルルは国王臨席のもとシャルトル大聖堂で形だけではあり
ましたが和解の抱擁を行いました。しかし、この和解のかげではやがて対立抗争す
ることになる二つの党派が結成されつつありました。2つの党派はそれぞれの名前
がつけられブルゴーニュ派、アルマニャック派(シャルルはアルマニャック伯の娘
と結婚していた)と呼ばれました。
やがて、ブルゴーニュ侯ジャンはオルレアン侯ルイの公金使い込みを非難する世
論を巧みに利用して暗殺を正当化しようとしました。ブルゴーニュ侯に好意的なパ
リ大学は暗殺の正当性を理論づけようとし、パリの有力層、特に精肉業者は彼の手
足となって働く人間を提供しました。
1411年パリの市民の支持を得たブルゴーニュ侯ジャンは腹心の一人をパリ市
長にすると屠殺場で働く血の気の多い人々にアルマニャック派に荷担する人々の家
を掠奪させました。こうして、ブルゴーニュ派とアルマニャック派の争いが始まり
ました。
やがて、シモン・ル・クートリエという男を首領に抱いた屠殺場の人々の勢いは
暴動を扇動したブルゴーニュ侯ジャンが考えていたよりも過激な行動を起こし、パ
リは流血の街となりました。その勢いは止まることを知らず、やがてブルゴーニュ
派に荷担していた人々はこれ以上の流血沙汰を嫌いアルマニャック派に助けを求め
めました。市民の心が自分から離れていくのを感じたブルゴーニュ侯はあわててパ
リから逃げ出しました。
パリの市民を味方につけたアルマニャック派はオルレアン侯シャルルを先頭にパ
リへ入り、暴動を起こした屠殺場の人々を処刑し争いを静めました。
この、両派の争いが、イギリスが戦争を再開させるきっかけとなりました。
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