3.国内の情勢(フランス)


  (6)内乱の終焉

    マルセルの味方であったナヴァルの王の親族が農民たちによって殺されてしまっ
  たため指導者であったギョーム・カールを捕らえ、殺害してしまったのです。指導
  者を失った農民たちは崩壊し、さらに立ち直った貴族たちの復讐にあい2万人の農
  民が殺され、農村は蹂躙されていきました。行き場のなくなった農民たちはパリへ
  と逃げ込みました。

    マルセルは最後の手として再び市民たちを駆り立て王の城塞であるモーというパ
  リの近くの小さな都市を占領することを計画しました。しかし、市民軍が河を渡ろ
  うと橋にさしかかったときパリを抜け出した王太子軍の襲撃に会い、多くの市民が
  殺されていきました。これで、王太子はパリへ戻ることができたのです。

    形勢は逆転しました。マルセルの味方であったパリの市民たちは、パリ付近の農
  村が荒されたため食料事情が悪くなり、不満がたかまり次第にマルセルの言葉に耳
  をかそうとはしませんでした。仕方なくマルセルはナヴァル王を頼ったのですが、
  そんなマルセルを市民は「王国の敵と手を結んだ」と非難しました。とくに農村の
  人々は激しい憎悪をマルセルに投げ掛けていました。彼らはパリ市が三部会を操り
  臨時税を徴収したことに限りない怒りを覚えていました。

    マルセルはパリを支配してはいましたがそれは裕福な商人とギルドと僧侶だけを
  たよりにしていたので、その基礎は脆弱なものだったのです。それ以外の市民たち
  は皆マルセルに背を向けたのです。

    その間に王太子は貴族の支持を得て3万の大軍を編成し、パリへと攻め入る準備
  をしていました。首都は混乱をきたし、マルセルに対する反感は日一日と高まって
  いきました。

    そして、1358年7月31日マルセルはジャン・マイヤールという反対派の手
  により暗殺されてしまいた。そしてマイヤールは王太子に使者を送りパリへの帰還
  を願いました。王太子の入城に際しては一市民が彼に対し威嚇の言葉を発する程市
  内は不穏であったが、王太子は努めて寛容な態度で接し市民をなだめることに力を
  尽くしました。

    そんな中で王太子は1360年にブレティニでイギリスとの条約を結び捕らわれ
  の国王を解放しました。が、条約によりフランスの西南部をを失うことになりまし
  た。しかし、その地方に住む人々はイギリス人を支配者として認めるには余りにも
  愛国的となっていたので禍根が残されることになりました。

    それでも、フランスにはやっと平和な日々が戻ってきたのでした。


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