4.百年戦争の再開


  (2)フランス滅亡の危機

    そのころのイギリス国王であったヘンリー5世の父ヘンリー4世は当時の国王
  リチャード2世に反旗を翻し国王になった人でした。そのため、ヘンリー5世の
  国王としての権力はあまり強いものではありませんでした。
    ヘンリー5世は自分の国王としての権力を強固にするためには大陸へと進出し
  るしかないと考えるようになりました。

    フランスでブルゴーニュ派とアルマニャック派が争っていることを知ったヘン
  リー5世はパリを追われたブルゴーニュ候に会談を持ちかけました。
    しかし、その会談の内容はイギリス側の勝手なフランス領土の割譲案でした。
  いくら権力争いをしているとはいえ、フランス人であるブルゴーニュ候はその提
  案に同意することをためらいました。会談は2度開かれましたが、2度目の会談
  の席で煮えきらないブルゴーニュ候の態度を見たヘンリー5世はフランスへ向け
  て戦争をはじめる決意をしました。

    こうして、百年戦争は再開されました。

    1415年8月にイギリス軍はフランスに上陸し、10月アザンクールで戦い
  が起こりました。やっとの思いでブルゴーニュ派を排除したフランス軍はこの戦
  いでかつてないほどの敗北を喫してしまいました。
    この戦いでは従来の戦争のしきたりが無視され、捕虜となったフランス貴族は
  処刑されてしまいました。当時の戦争では捕虜となった貴族は多額の身代金と引
  き替えにされていたのです。

    国王は貴族に領地を与え、その統治をいっさいまかせる代わりに外敵を防ぐた
  めの「壁」としていました。その「壁」となる貴族が大量に処刑されたためフラ
  ンスはイギリス軍の進出を防ぐ事が難しくなりました。
    邪魔がなくなったイギリス軍は次々と都市を占領し、1419年にはフランス
  第二の都市ルーアンを占領しました。

    一方、パリではブルゴーニュ派のパリ奪回の奇襲が成功し1418年にパリに
  入城し、掠奪とアルマニャック派への虐殺を行っていました。
    アルマニャック伯は捕虜となり、発狂した国王に変って政治を行っていた王太
  子シャルル(後のシャルル7世)も身柄を奪取されるところでした。何とかパリ
  を脱出した王太子シャルルはブルージュに逃れ、そこに臨時政府を樹立しました。

    王太子の身柄を押さえることに失敗したブルゴーニュ派はイギリスと同盟を結
  んでしまいます。ブルゴーニュ候はイギリス軍の援助により、政権を奪おうと考
  えたのでした。

    ブルゴーニュ候はイギリスとの同盟を強化するための政略結婚を考えていまし
  た。まずは自分の息子フィリップとフランス王女ミッシェルを結婚させ、さらに
  イギリス貴族のベッドフォード候ジョンと自分の娘アンヌの結婚させようとしま
  した。ベッドフォード候はヘンリー5世のもっとも信頼する人物でした。
    しかし、その計画もフランス王家とブルゴーニュ家の間で起きた暗殺事件の
  ため、水泡に帰してしまいます。

    慌てたブルゴーニュ候は王太子と和解しようと会談を開きました。しかし、会
  談は議論からすぐに口論となり、さらに両派の衛士の間で刃傷沙汰になりしまい
  にはブルゴーニュ候ジャンは殺されてしまいました。

    この事件のあとブルゴーニュ派は再びイギリスと同盟を結びます。1420年
  に結ばれた「トロワの条約」で王太子シャルルは“その数々の恐るべき犯罪行為”
  により王位継承権を剥奪されフランス王国の王冠はヘンリー5世の嫡男とその相
  続人に永久に伝えられることが定められてしまいました。また、ヘンリー5世は
  フランス王女カトリーヌと結婚しました。これによりヘンリー5世はフランス王
  位の正式な継承者となりました。

    しかし、ヘンリー5世は1422年に亡くなってしまいました。そして、フラ
  ンス王位はカトリーヌが生んだ1才のヘンリー6世へと引き継がれ、政治は摂政
  となったベッドフォード候ジョンが行うことになりました。
    ベッドフォード候は混乱のさなかにあるフランスの軍事・民事面を建て直し、
  パリの防衛を固めさらにフランスの奥へと進出していきました。
    
    一方、王位継承権を剥奪された王太子シャルルは1424年に2度イギリス軍
  に撃破されましたが1427年にモンタルジの解放戦でやっと勝利をあげました。
  しかし、それはとても小さな勝利でした。

    これにより、ベッドフォード候は一挙に大勢を決するべくオルレアンへ向け進
  撃刷ることを決意しました。オルレアンを占拠すれば王太子軍をブルージュに止
  めたまま、占領した北フランスと先の戦争でイギリス領土となっていたフランス
  南西部のギュイエンヌ地方と連携を取り王太子軍の息の根を止めることができる
  からです。

    ところが、オルレアンの領主はイギリス軍の捕虜となっているにも関わらずオ
  ルレアンの守りは固くイギリス軍も攻めあぐね、やがて新しい年になりました。
    当時の戦争のしきたりでは領主のいない都市を攻撃することは違法だっただけ
  に市民たちは激しく抵抗したのです。

    しかし、長い戦いの中で兵糧は乏しくなっていきました。そんな苦しみの中で
  市民や兵士たちはイギリス軍の不正により、また自分達が勇敢で忠誠であるため
  いつかは神による奇跡がおきる、そう信じて戦っていたのです。そして一人の少
  女の出現により奇跡は起きました。

    その少女の名をジャンヌ・ダルクといいます。


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