3.国内の情勢(フランス)


  (3)王権とギルドの対立
  
    日傭人たちは労働力が無いのをいいことに高い賃金を要求していました。労働
  者たちはギルドと呼ばれる組合を組織し、都市の商業を独占していました。この
  ギルドはもともとは遠隔地との交易を行なう商人達が旅の途中の共同防衛と取引
  先を確保するために自発的に団体組織を形成したものでした。
    それが都市や町に定住するようになると、その町の商業の独占と商取り引きの
  自由を目指すようになりました。

    このギルドは普通、親方と徒弟と職人から成り立っていました。職人達は最初
  徒弟となっていろいろな雑用をさせられ、そのうち技術を学び職人となって修行
  を積み、試験をうけて合格すると親方となりギルドの構成員となって行きました。
    しかし、当時は市場が狭く、需要も限定されていたのでギルドの構成員に制限
  を設けるようになりました。そして、需要と供給の調整をはかりはじめ、製品の
  価格決定を行なうようになって行きました。

    ギルドは生産力が低下して、供給をコントロールしなくても需要に追い付かな
  いのをいいことに賃金や製品や商品の価格をつり上げ、民衆を苦しみをよそに利
  益を貪るようになりました。

    そこで、国王は1351年に「大勅令」を発布して市場を正常なものに戻そう
  としました。

    この「大勅令」は古来多くの学者の間で「フランス国王が公共利益の保護の立
  場を認めた」ものであるとか「労働の自由と解放を目指したもの」であるとか
  「経済恐慌に対する一時しのぎに過ぎないもの」などと論議がなされてきました。
    が、そのすべてを含めてもこの勅令が「物価や賃金に公定価格制を求める、極
  めて統制的な要素の強いもの」であることは認めていました。
    この勅令では食糧、衣類等の必需品等について仕入れの値段から販売価格まで
  細かく規定されていました。それは、賃金に関しても同じで、例えば「パリで傭
  われる婦人は食事付きで6ドニエ、食事なしで12ドニエ以上の日当を越えては
  ならない」などといった条文もありました。
    
    ただ、この条例はほとんどが最高価格の決定しかなかったので所詮は一時しの
  の条例でしかないと思われがちでした。

    国王はこの条例を発布してギルドの独占をなくそうとしたと思われます。それ
  は、この条例の中にある親方の数の制限を廃止し、あらゆるギルドの労働者に自
  由に都市に住むことを許し、また、外国商人の渡来を歓迎し商人間の自由競争に
  よって商品の円滑な流入を図っているところにみうけられます。

    これにより国王はギルドがもっていた特権をなくし、自分の監督権を広げよう
  としていました。

    しかし、ギルドはこの条例におとなしく従う気はなく、度重なる戦争(しかも
  負けてばかり)のための徴税や貨幣制度の改悪で憤りを感じているところだった
  だけに、この条例が発布されるとすぐに三部会で臨時税の徴収を拒否し、135
  6年まで戦争に対して協力することはありませんでした。フランスはフランドル
  の市民だけでなく自国の市民をも敵に回してしまったのです。

    そして、ボワティエの戦いが終り、良貨の樹立を条件として三部会が開かれま
  したが、ここでも市民は御用金(税金)の公正な使用を要求し、また、官吏の腐
  敗、堕落、無見識を攻撃し、罷免等を要求しました。
    これに対し摂政である王太子は努めて寛大な態度で三部会の要求に答え一部の
  役人を罷免し、三部会の選定になる王の顧問官を側近にすることを認めました。
    国庫の慢性的な欠乏状態を解消するには市民を助力を必要としていましたし、
  国王を捕虜にとられた王太子は一人の敵も国内に欲しくなかったからです。
    それでも、市民は王太子を攻めることをやめずしばしば急進的な人物を顧問官
  に選んで王太子の政治を牽制しました。


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