3.国内の情勢(フランス)


  (4)内乱1

    このころ三部会を指導していたのはパリの市長であるエティエンヌ・マルセルと
  司教ロベール・ル・コックでした。

    マルセルはパリの毛織物商人で民主主義の様な社会にしようと考えていました。
  もう1人のロベール・ル・コックは元々は宮廷で用いられていた人であったが、王
  の敵ナヴァルのシャルルという人物に会い変節した人物でした。
    2人ともパリ市を中心に他の市町村との連合によりフランドルのような都市の自
  治体建設しようと考え、王政を廃止し都市の上層市民による共和体制を樹立しよう
  と思っていました。

    マルセルはまずパリを補強することからはじめました。小さな壁を城壁の外側に
  めぐらし、塔の上には大砲や弩砲をのせ、鎖を夜毎街にはりめぐらせ、十字路にバ
  リケードを築いていきました。そして、1358年の元旦に彼は解放都市に書状を
  送り自分達の仲間になることを求めました。そして、パリ市民の証として赤と青の
  色のついたシャプロン(肩まで垂れた頭に巻く布。後にこれに白が加わって現在の
  3色旗となったといわれている)を採用し、《すべての敵と戦い、市長と共に生き
  共に死ぬ》同盟のシンボルにもしました。市民はこぞってこれを身につけました。

    こうして、パリには反王権的な党派がギルドを中心につくられていきました。

    しかし、王太子もこれを黙ってみているわけではありませんでした。彼は身の危
  険も顧みず、わずかの騎士をつれて中央広場で演説を行いました。広場には民衆が
  あふれ、国の最高位の人の演説に感激していきました。
    さあ、これで大丈夫かと思われた時に事件がおこり、王太子の勇気ある行動が無
  駄になってしまいました。王太子の秘書官が僧侶から馬を買っておきながら代金を
  支払わなかったためその僧侶に街頭で刺し殺されてしまったのです。
    僧侶はすぐにサン・メルリ教会に逃げ込みました。王太子はすぐに兵をつれて閉
  ざされていた教会の門を破って犯人を捕らえ、翌日裁判を行わずにこの僧侶を絞首
  刑にしてしまいました。そのため、騒ぎは大きくなり市民はこぞって王太子の秘書
  官の不法行為をなじり、王太子の処置に強い反感を示しました。

    これによって、王太子は市民と教会の支持を失い、マルセルは味方を増やしてい
  きました。

    マルセルは次第に大胆になっていきました。2月22日に彼はノートル・ダムの
  鐘の音と共に三千の市民に武装させ、自ら先頭に立って王太子に面会を求めました。
  その目的は王太子の側近であるシャンパーニュ元帥とノルマンディ元帥の2人を除
  くことにありました。彼らは門衛の妨害を簡単に排除し、たちまち王宮の各部屋を
  占領しました。そして、恐怖に蒼ざめ何の言葉も発せられない王太子の目の前でマ
  ルセルは市民をそそのかし2人の元帥を殺害してしまいました。そして自ら顧問官
  を選びなおして新しい政権を樹立してしまいました。それはまぎれもない革命行為
  でした。王太子はそれ以来捕らわれの身となり3月末にパリを脱走するまでマルセ
  ルの操り人形となって政治を行うしかありませんでした。

    そして、5月になると思いがけぬ事件が起こりました。

    「ジャックリーの乱」と呼ばれる農民一揆が北フランスを襲ったのです。


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