3.国内の情勢(フランス)


  (5)内乱2

    一揆は1358年5月21日、ボーヴェの郊外から始まりました。

    イギリスと戦争が起こるとき北フランスは両国の位置関係からいって、必ずといっ
  ていいほど戦場となりました。この戦争での最大の犠牲者は北フランスに住む農民
  たちだったのです。そんな彼らに王やその地方を支配していた貴族たちは何一つ慰
  めの言葉をかけませんでした。それどころか、中央権力が衰退するにつれ武装した
  盗賊たちの餌食となり、次はわが身かも知れない、と不安な日々を過ごしていまし
  た。本来、彼らを守るべきはずの貴族たちは自分達の身を守るだけで、もはや何の
  力にもなってくれませんでした。
    そんな不安と貧困が土地の支配者である貴族たちに対する軽蔑と憤怒を呼びさま
  し、暴動へとつながっていきました。

    農民たちは棒の先に刃物をつけ、隊列を組み貴族の屋敷へ向かって殺到しました。
  貴族の家では女子供まで殺され、屋敷は掠奪され焼かれました。農民たちの叛乱は
  ボーヴェからアミアン、ラン、ソワソン、ヴァロアの各地区におよびイール・ド・
  フランスのすべての地方に広がっていきました。

    最初農民たちは衝動的に暴行を行っていましたが、やがてギョーム・カールをは
  じめとする幾人かの指導者よって統率され、その目的もただ暴動を起こすことから
  腐敗した貴族たちを打倒することへと変わっていきました。

    マルセルは最初この事件にたいしてはあまり関心を持っていませんでしたが、カ
  ールがバラバラに暴れている農民たちを統率すると、彼らと手を結びパリの立場を
  強固なものにしようと考えました。そして、パリの市民だけで二つの遠征隊を編成
  しました。遠征隊の一つは香料商人と金銀細工商の指揮でパリの南部にある貴族を
  攻め北方で起こった暴動を拡大させようとし、もう一つは農民たちと合流するため
  に北へと出発しました。ただ、この遠征隊には問題がありました。なにせ、市民だ
  けで編成された軍隊なため集中力や持続力がなく、威勢はいいがすぐに物事に厭き
  る人々だったので戦意は日々低下していく始末でした。

    しかし、マルセルのこの目論みが崩れていく出来事がおきました。


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