薔薇戦争(3)

 セント・オール・バンズでの戦いはヨーク派の圧勝でした。この戦いで、サマシット公は戦死し、ヘンリー6世も負傷してしまいました。

 この戦いの後、ヨーク派は当然宮廷内で力をもちはじめました。ヨーク公はみずから警安長官の地位につき、ウォリック伯リチャードがカレー総督となりました。ヨーク公はバッキンガム公ハンフリーらと王領地回収を促進して王室収入の確保につとめ納戸庁を押さえて財務府中心の財政機構を復活させました。
 ところが、1456年戦争でうけた傷が治ったヘンリー6世が再び親政をはじめるとヨーク公らは宮廷内での力を少しずつ失っていきました。ヘンリー6世はヨーク公が行った財政政策を無効とし、王領地を分割して寵臣への所領譲与を行いました。また、カレー総督となったウォリック伯はドーバー海峡でスペイン軍を撃破したりして名声を上げていましたが、マーガレット王妃の逆鱗に触れてカレー総督の地位を取り上げられてしまいました。王妃はさらにソールズベリ伯を討伐するために軍を動かしましたがブロア・ヒースの戦いで敗れてしまいました。
 一方、ヨーク公たちもラドロウという場所で合流し兵を挙げようとしましたが、王妃軍に襲撃されてしまい、ヨーク公はアイルランドへウォリック伯はカレーへと逃げ込むことになりました。

 カレーへと逃れたウォリック伯は1406年1月海軍を組織してアイルランドへと急行しヨーク公と合流しました。そして、ヨーク公はアイルランドからランカスター派が行う内外政の失策、不法課税などを訴えました。6月になるとウォリック伯とソールズベリ伯はヨーク公の子エドワード辺境伯とともにサンウィッチへ上陸しロンドン市民が自分たちを支持してくれることを確認すると7月にノーサンプトンで国王軍と決戦を行いこれに大勝し、ヘンリー6世を逮捕しマーガレット王妃をウェールズ地方のデンビーへと追いやってしまいました。

 戦いの後、ウォリック伯たちはヨーク公をアイルランドから迎え、国王へ即位させようとしましたが議会ではまだランカスター派の貴族たちが多かったため、いますぐ即位することを諦め、ヘンリー6世が亡くなった後王位に就くことにしました。しかし、ヨーク公は北方でランカスター派と戦っているヨーク派の貴族の応援に行き、ウェイクフィールドの戦いで不覚を取り戦死してしまいました。

 ヨーク派の中心人物が亡くなったことで勢いを盛り返したランカスター派はスコットランド王の妹と王太子の縁談をすすめました。そして、スコットランドとスコットランドを通じてフランスの援助を期待し、1461年にマーガレット王妃を中心としたランカスター派はヨーク派討伐のための兵を挙げました。2月にルートンの戦いでウォリック伯の軍を撃破するとセント・オールバンズでヘンリー6世を救出するとロンドンへと迫りました。
 しかし、ロンドン市民たちは王妃やランカスター派の貴族たちへの反感が強く、前の辺境伯でヨーク公リチャードの跡をついだエドワードを迎える声が圧倒的でした。
 そして、ヨーク公エドワードはウォリック伯と合流し、3月にロンドンへ行き市民たちに迎えられてエドワード4世として即位し、ヨーク王朝を開きました。

 エドワード4世は1461年にマーガレット王妃を中心としたランカスター軍をタウトンで破り、マーガレット王妃はスコットランドへと逃げ延びました。また1462年末にウォリック伯もフランスの援助を期待して盛り返した王妃軍とバンバラで攻防戦を展開し、1464年にはヨーク派の貴族ジョン・ネヴィルがヘクサムでランカスター派を破り、ランカスター派の大物貴族サマシット公ヘンリー・ボーフォールを戦しさせました。
 ランカスター派と戦いを繰り広げる一方でエドワード4世は、フランスがランカスター派を支援することを警戒して、百年戦争終結の交渉をブルゴーニュ公フィリップを介して進め、1463年6月にサン・トメールで和平条約を結びました。

 エドワード4世は王位に就いて最初の議会でランカスター朝の否定とランカスター派への報復を決めましたが、ヨーク家の資産が豊富にあったため、戦争のための課税要求をださなかったため、議会庶民院の支持も厚く教会の協力も得ることができました。そして、自らもよく国内を巡行して精力的にヨーク派の地盤を固めていきました。
 また、ランカスター派への報復を決めたにもかかわらず1461年にランカスター派の者がうけた不当な財産差し押さえ処分の是正を命じたりとその裁判も極めて公正なものでした。
 しかし、ランカスター派貴族との抗争が激しくなるにつれて強力な行政体制を敷くことを強いられ、王座裁判所首席裁判官ジョン・マーカムを寛大すぎるという理由で失脚させ、警安長官の権限を強化して大逆罪法を執行させるようになりました。
 さらに旧式の機構を頑固に守っている財務府を排除して王室庁を重用し、王室庁と地方行政との連絡を緊密にするため、王室庁役人を地方の治安判事、州長官とし地方からの収入を財務府を通さず直接王室庁に納入させました。
 この、財務府を排除し王室庁を中心とし体制は行政の能率を高めることになりましたが、国王の専制的体制を強めることになり、ヨーク朝時代から絶対王朝へと傾いていきました。


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