薔薇戦争(4)

 ウォリック伯リチャード・ネヴィルは、エドワード4世がまだ辺境伯だったころからのヨーク派の領袖として活躍していましたが、エドワード4世がリヴァーズ領主リチャード・ウッドヴィルとベッドフォード公未亡人との間の娘であるエリザベス・ウッドヴィルと密通していたことを知らずに、フランスとの和平を第一として考えてフランスの王族の娘をエドワード4世の王妃として迎えようと策動していました。
 しかし、エドワード4世はフランスとの和平よりもブルゴーニュ公との友好を大切にしようと考えていました(このころ、フランスでは国王ルイ11世とブルゴーニュ公は対立していました)。そして、エリザベスとの関係をの告白し彼女と結婚すると、ウォリック伯はそのことに対して大いに怒りました。もともと外交政策に関して食い違いを見せていたため、ウォリック伯とエドワード4世との関係はこれをきっかけに次第に冷たくなっていきました。

 1468年にエドワード4世の親ブルゴーニュ政策に反対したことが発端となり、ウォリック伯はルイ11世の支援のをうけて王弟クラレンス公ジョージを擁して兵を起こし、1469年7月オルニーでエドワード4世を逮捕しました。そして、1469年9月の議会でエドワード4世の廃位を討議する予定をたてましたが、折悪しくランカスター派の反乱が起こり、ウォリック伯は反乱を鎮定させる自信が無くエドワード4世を釈放することによって反乱を鎮めました。
 その後もウォリック伯はエドワード4世を陥れようと各地で反乱を助長していましたが、1470年にエドワード4世より召喚をうけたためにルイ11世の保護を求めてフランスへと逃亡しました。

 ルイ11世はウォリアック伯と会談してランカスター王朝の復位を計画し、1470年7月にウォリアック伯とヘンリ6世の王妃マーガレットに会見させました。ウォリアック伯はマーガレット王妃に対してかつての数々の敵対行為を謝罪して、改めてヘンリ6世とマーガレット王妃に忠誠を誓い、王妃の支援を受けて9月にエドワード4世を征討する軍を率いてイギリスへ戻りました。その頃ヨークに向かっていたエドワード4世は、その知らせを聞いて驚き、ブルゴーニュへと亡命しました。
 10月に難なくロンドンに入ったウォリック伯はヘンリ6世を釈放して復位させ、みずから国王代理となりました。が、ランカスター派の諸公の支持を受けられず彼の立場は非常に弱いものでした。

 一方エドワード4世の亡命を受けたブルゴーニュ公はウォリック伯の行動を非難し、エドワード4世を支援することを表明しました。エドワード4世は兵を率いて1471年3月にイギリスへ戻り4月にロンドンに帰還し、再びヘンリ6世を逮捕しました。後ろ楯を無くし孤立してしまったウォリック伯はバーネットでエドワード4世に決戦を挑み、そこで戦死してしまいました。

 このことを知らずにイギリスに戻ってきたマーガレット王妃はウォリック伯戦死の知らせを聞いて西英へと逃亡しましたが7月にテュークベリで逮捕され、数年後莫大な身代金でフランスへ引き渡されました。

 1474年4月にエドワード4世はブルゴーニュ公と対フランス同盟を結び、1475年7月に大軍を率い、フランス王位を要求してカレーへ向かいました。同じ頃、ブルゴーニュ公は東方進出を試みてノイスの抱囲作戦を行っていたため、ルイ11世はエドワード4世に年金と7年間の平和を提供しエドワード4世はフランスから引き上げていきました。

 その後、エドワード4世はブルゴーニュとの商業協定を維持したいため、ブルゴーニュ公に対しては対フランス同盟を続けながらも、ルイ11世には年金を得るためブルゴーニュ公に対抗するポーズをとるという羽目に陥ってしまいました。そのため、ルイ11世はしきりにエドワード4世とブルゴーニュ公の同盟を壊すためにカレー、フランドルを圧迫しはじめました。ブルゴーニュ公はエドワード4世に救援を求めたましたが、その頃エドワード4世はスコットランドのジェームス3世と戦っていたためにそれに応えることができませんでした。
 ルイ11世はスコットランドとの問題が片付かない限りエドワード4世がブルゴーニュ公の救援に来ない事を見越していましたが、思ったよりも早くジェームス3世がエドワード4世に屈してしまったため、ブルゴーニュ公とアラス協定を結んで和平してしまいました。エドワード4世はブルゴーニュ公の救援に応えることができなかったため、ブルゴーニュとの商業協定とルイ11世からの年金の二つをいっぺんに失ってしまいました。

 こうした事態の急な展開に失望しながら1483年4月、エドワード4世は病死してしまいました。


次のページ      前のページ      目次へ
【歴史の部屋】へ   トップページへ
ご意見、ご感想はこちらまで