古代中世編年史料

上古〜古代
鎌倉時代
南北朝
室町時代
戦国時代

上古〜古代

天智天皇(626〜671)

「古い書物によると、「千手村は昔、薄井郷の一部にして東分村と言えり。この郷五千石
は代々千手氏の領有なり」と記されている。そもそも千手氏は、天智天皇が韓国の百済
の乱を救おうとして九州へ御くだりになった時、天皇に従ってきたが、そのままこの地に
居残って五千石を領し、代々七百年の長い間この地を領した。天智天皇はかつて百済
の国王が謙譲した大悲菩薩を奉持されていたが、天皇がなくなられた後、千手氏がこれ
を頂き、子々孫々大切に奉仕してきたが、今から約500年前、すなわち文明年間(146
9〜86)に、清浄、閑散の地に堂を建立して厚く供養し、これをお祭りした。これがいわ
ゆる千手寺で、千手氏の菩提寺と言われている」。(「嘉穂町史」)
(筆者注:近代まで、宮崎県高鍋町千手氏は観音像を大切にお守りしてきた。なお、千
手氏が南朝方だったことを考えると、下記應永七年の項に記した長慶天皇の故事が、
世を憚るために天智天皇と転化したものかも知れない。冒頭の「古い書物」とは、大屋
久「山陵遺積」(明治三十二年)と宗像郡の江口家文書「継承家譜」である)。

九州武士団発生、荘園や大宰府退官者(大蔵系)

(1150〜頃)
大蔵春実の六代の子孫、原田種納の子の種衡、鞍手郡司に任ぜられるが、その兄弟よ
千手氏分かれるか?「九大名誉教授長沼賢海氏「邪馬台と大宰府」原田氏も大きく見
れば帰化人秦氏の支流で原田氏が特に強大になったから大蔵が有名になったであろう
と述べている」。(「豊前香春城と原田氏」)

「美濃国諸家系譜」全六冊の中の巻の5に、「秋月氏系図」あり、その中に原田種直
子供として長男種雄(秋月氏の先祖)の次に種盛(怡土郡ノ鎮守・高祖大明神ノ社務・上
原兵庫頭ノ婿)の次に種宣という名があり、その横に「千手五郎、住筑前国千手」とあ
る。種宣には一子種之があり通称は「千手五郎三郎」、種之に一子某があり通称は「三
郎大夫」。(「美濃国諸家系譜」(明治15年に書写されたようで、原本は当時栃木県河内
郡宇都宮町に在住の中里千族という人が所持していたとのこと))

「ここに1100年代の大蔵一族の分布(配置)を見るに、竹野に本拠(種資より岩門に館
を設ける。)を置き、筑前大宰府の近く板井荘に板井大蔵・嘉麻に嘉麻大蔵・鞍手権
守、・・・」(「大蔵姓原田氏史料附録大蔵姓原田氏系譜稿」)

大蔵朝臣姓秋月の項、種直の子として、種雄(秋月三郎)の次に、重国嘉摩兵衛)が
見える(その次は、四男として種成)(「系図纂要」第十五冊)。

元暦二年(1185) 
二月一日「参州、豊後国に渡る。北条小四郎、下河辺庄司、渋谷庄司、品川三郎等、先
登せしむ。しかるに今日、葦屋の浦において、太宰少弐種直、子息賀摩兵衛尉等、随
兵を引きてこれに相添ひ、挑み戦ふ。行平、重国等、廻り懸けてこれを射る。かの輩、
攻め戦ふといへども、重国が為に射られ了んぬ。行平、美気三郎敦種を誅すと」(種直
の子賀摩兵衛尉には、種益と注釈がある)(「吾妻鏡」)

3月24日、壇ノ浦の戦いに平家滅亡する。なお、佐賀の千手正博氏所持と思われる
手氏系図には、一門没落の時筑前国夜須郡千手に蟄居した平知盛の子である盛国
が、千手氏の祖と伝える。

(筆者按ずるに、やはり原田種直の息子のいずれか(千手五郎種宣、嘉摩兵衛重国、あるい
は、賀摩兵衛尉種益)が、平家の滅亡と、秋月庄の拝領に伴って、十三世紀頃に嘉摩地方に
移り住み、千手氏を名乗ったのが始まりではないかと思える。種直の妻は清盛の異母弟であ
る平頼盛の娘だったので、平氏の子孫でもあることになる。後述する千手寺脇の伝長慶天皇
は、そうした千手氏初代の墓である可能性がある)。

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鎌倉時代

平氏側武士没落(原田氏)、鎌倉からの下り衆守護に(武藤(少弐)氏)

建仁三年(1203)
原田(三郎)種雄、武田有義の謀反をいち早く鎌倉幕府に通報した功績により、鎌倉幕
府二代将軍・源頼家から恩賞として筑前・秋月荘を拝領し、秋月氏と称した。

文永十一年(1274) 文永の役

建治二年(1276)
千手氏等、博多の津に向かい、石築地(元寇防塁)を普請する。(「北肥戦史」(馬渡俊
継著、享保年間))

弘安四年(1281) 弘安の役

鎮西探題の設置、大宰府(小弐氏)の衰微

永仁五年(1297) 北条実政を正式の鎮西初代探題として博多に下した

元亨三年(1323)
九月七日奥書の、宇美宮領長野庄小蔵寺田地に関する、千手兵衛入道あての書状が
見える。(「鎌倉遺文」古文書編第三十七巻)

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南北朝

足利尊氏(少弐貞経)VS宮方(菊池武敏、千手・秋月氏)

元弘三年(1333) 後醍醐天皇の挙兵に呼応し、少弐貞経、大友貞載らは、筑前姪浜城に探
題北条英時を攻撃して滅亡させた。

建武三年(1336) 
二月二十九日、有智山城の戦いで、菊池武敏に攻められ小弐貞経戦死。
三月二日、足利尊氏は筑前多々良浜合戦で、宮方の菊池武敏を破り、少弐頼尚を案内
に立て、大宰府原山無量寺に本営を置いた。
五月二十五日、湊川合戦で新田義貞軍を破り、楠木正成戦死。
三月二四日、九州南朝の諸将は軍を集めて豊後玖珠城に籠り、南朝勢力の拠点とし
た。尊氏は鎮西探題一色範氏の弟頼行を玖珠城攻めの将とした。実に八ヵ月以上の攻
防戦が展開された後、十月十二日、玖珠城は落城した。

建武四年(1337)
四月十四日、千手・秋月氏らの南党、筑前国穂波郡長尾村に侵入。「筑前の南党(宮
方)に千手氏の名が見えることは注目される。」(「嘉穂地方史古代中世編」)
十月十一日、南党、豊前国宇佐郡より筑前国嘉麻郡桑野原に打ち出て北党と戦う、つ
いで南党、嘉麻郡嘉麻城に拠って戦う。(「嘉穂地方史古代中世編」)

正平三年(1348) 後醍醐天皇の皇子、懐良親王が十数年を費やした後肥後隈府の菊池氏
の城に入る。

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室町時代

九州南朝勢の黄金時代と、畿内での大内氏台頭

正平八年(1353) 二月、少弐氏と連合し、南朝勢、筑前針摺原で一色勢(北朝側)破る→二
年後、一色氏京都へ去る

正平九年(1354)
「十一月十五日、筑後の人南党木屋行実・草野永幸等、筑前国嘉穂郡千手城における
軍忠を注進す」。「嘉麻郡千手を中心とした在地勢力と思われる千手氏は、動乱の勃発
と共に南朝方として活躍しており、千手城は千手氏の居城であったろう」。(「嘉穂地方史
古代中世編」)

正平十四年(1359) 八月、大保原(筑後川)の戦いで征西将軍懐良親王を奉じた菊池武光
の南朝勢、小弐頼尚の北朝側に壊滅的打撃を与える。

正平十六年(1361) 南朝軍、征西将軍府を大宰府に置く。少弐頼尚と大友氏時、南朝側に
属し、南朝側菊池武光、完全に九州を制圧する。

正平二十三年(1368) 
「征西将軍宮、上洛のこと 二月二十日に菊池武光が九州の兵六万騎を率いて鶴崎浦
を進発、まずは長門国赤間に向かった。二十三日、大内義弘は陶弘政に兵船五百艘と
三千騎をつけてこれを討たしめた。弘政は彦島において上陸してくる九州南朝軍を迎撃
し、半渡に乗じて七百騎を討ち取り、兵船八十艘を焼き払った。征西府軍は豊前国香春
嶽に退いた」(「後太平記」)

後村上天皇皇太子の寛成親王が即位し、長慶天皇となる。(「桜雲記」)

應安三年(1370) 足利義満、九州探題に今川了俊を任命する。

應安四年(1371) 
今川了俊が豊前国に着岸したとき馳せ集まった人々として、千手次郎高房がみえる
(「両豊記」今川了俊九州下向之事)。

文中元年(1372)太宰府の征西府落城懐良親王・武光ら高良山城に退く

文中二年(1373)
十二月、懐良親王が長慶天皇を九州に奉迎。(インターネット記事、出典不明)

天授元年(1375) 了俊、南軍の主力菊池勢を肥後の本拠に追詰め、水島の陣にて、少弐
冬資誘殺される。

永和四年(1378) 長慶院は僧形となって諸国宮方を励ますべく修行の旅に出た(「後太平
記」)

弘和元年(1381) 菊池本城陥落-菊池武資の抵抗(「桜雲記」)

弘和3年(1383) 10月末、11月初めのころまで長慶天皇の在位は確実であるが、同年末
か、翌元中元年(1384)閏9月前の間に譲位した。(『国史大辞典』村田正志)

元中元年(1384)
六月八日 今川了俊、千手蔵人入道へ壱岐国石田郡薬師丸について書状。(「南北朝
遺文九州編」)(蔵人入道は、応永六年に見える千手蔵人光房か?)

明徳三年(1392) 十月、南北朝の合一成る 

應永元年(1394)千手信濃守興房、少弐頼光を討ち亡ぼして鬼が岳に居城。(田川郷土史
年表(豊陽古城記))

應永二年(1395) 今川了俊、幕府より九州探題職を罷免される

應永五年(1398)
「正月 原田種成、大内盛見に従い香春城を攻略す。原田種光を奉行に命じ、民政を司らし
む」(「大蔵姓原田氏史料附録 大蔵姓原田氏系譜 稿」)

應永六年(1399)
「一月 鬼が岳城主千手信濃守興房、大内に責められ城陥り自殺、それより原田氏在
城、その後高橋九郎重種拠る」。(田川郷土史年表(応永戦覧))

「千手氏在城の時大友氏鑑反す檄を豊前の諸城に移す信濃守興房之に応す是より前
き大内義弘菊池を討して功あり将軍義満豊前を以て義弘に与ふ義弘兵を当国に出す」
「鬼カ城側は、千手九郎房国が三百騎で東大手門に、松田次郎太輔光久、原田帯刀
左エ門種成が五百余騎で城内外を、・・・。星井民部亟直政、千手左エ門尉景統の五
百余騎は大手口で武田、吉川の兵と合戦、・・・」
「興房を始として次男三河守冬房、三男出羽守房長、同名九郎房国(九郎房国は興房
の甥なり)、同名左衛門左房任(房任は光房が子なり)、・・・都合八十三人一同に腹を
切りたりける。女性幼き人々をば、千手蔵人光房(光房は興房の伯父なり)刺殺し、其
身は腹切、焔に飛入て死にたりけり」
「興房の子、弾正高房は遁れて筑前にあり、後大内氏召して旧領を復す。その子信濃
守通高、孫信濃守冬通、曾孫弾正大弼冬長、玄孫左衛門督興国、その子信濃守通
以上七代にして亡ぶ」。
(「田川郡誌」、「香春町誌(豊前戦記)」、「両豊記」千手一族没落之事、「応永戦覧」)

(「金田町誌付属 金田町の伝承と昔ばなし」の年表の中に、1399年に「大友方の城主・千手信濃守興房は自害、嫡子千手高房は金田村西金田に逃れる」とある。西金田には、今も千手氏が現存しておられる)。)

(筆者注:武家方として菊池氏を討った大内氏が将軍に豊前を与えられて香春岳鬼ケ城
に兵を進め、千手氏が苦戦する様子が史料にありありとうかがえる。左エ門尉景統は、
文明十年(79年後)に見える盛景・正景の祖であろうか。左衛門督興国は、天文二十一
年に見える千手治部少輔興国と同一人物であろうか)。

十二月 大内義弘、応永の乱で足利義光に破れ、堺で討死

應永七年(1400)
南朝長慶天皇筑前にて崩御、千手寺に葬られる?

「千手寺の山陵 本郡千手村大字千手は往古碓井の郷の内にして東分村と云へり」「元
と真言宗なりしも文明年中臼井村曹洞宗派永泉寺第二世太白和尚再興せしより禅宗と
なり末寺九ヶ所を有し頗る殷賑なりしが其後数回火災に羅り規模少なりと雖も往古の壮
観今猶ほ旧址の認め得るものあり寺の東に当り五輪の塔あり地方の口碑によれば
智天皇の御陵なりと云ふ」「維新以前は此塔の横に当る道路には牛馬の通行を禁し凡
そニ三丁前より左に当り替道を作り牛馬は之を通行せり又村民は此塔を長慶様と唱へ
て・・・」「ある古記録によれば南朝第三の帝長慶天皇足利義満等の暴逆を避け玉ひ大
内満氏河津種光同苗光祐大橋服部等扈従し長門国深川の荘宗像郡河西郷嘉麻郡碓
井の郷に玉跡を留め賜ふ内應永七年二月の頃より上皇御心爽ならす良もすれば夜の
御殿に引寵りて御座ける」「三月十七日寅の刻に崩御成にけり・・・」「火葬なし玉骨を碓
井の郷内寂寞たる深山に葬り奉り陵を円丘高く築き世上を憚り天智天皇を故ありて追
祭すと河津光祐等計らひ奉る」(「嘉穂郡誌」(明治版))

「年代的には、石塔の形や石囲い墓の状況から、鎌倉時代終末から南北朝初期のもの
と考えられます。よって、埋葬された人物は、長慶天皇より百年前後古い人物で、武士
団の頭領か僧侶と考えられるでしょう。前者であれば、南北朝初期には文献に登場する
千手氏が有力でしょうし、後者であれば、千手寺関係の僧侶ということが考えられます。
詳細は、発掘調査や文献資料の新たな発見に期待しますが、個人的には、千手氏の頭
領じゃないかと考えています」(千手の長慶様「議会だより」平成六年一月三十一日、嘉
穂町福島日出海さん)。

(なお、福島さんによれば、石塔の形式は繰形座を置く西大寺奥の院五輪塔(興正菩薩
叡尊(1201〜1290)墓)と同様であるが、この形式は瀬戸内には広く分布するもの
の、九州では極めて珍しいという。初期千手寺と同じ真言宗総本山の西大寺に縁のある
人物の墓ではないか?)

宮野村上須川、黒厳山御陵説もその一であって、「星野家譜」に載する所であるが、そ
の概要を次に掲げよう。長慶天皇は御在位十五年の後、弘和三年、御年四十一にて遁
世、紀伊国伊都郡玉川に移らせ給ひ、世に玉川殿と申した。星野助実は、玉川に参向し
て、上皇の御供仕り、元中三年正月(西暦一三八六年)筑後生葉郡の妙見にお迎え申し
上げた。・・・かくの如くましますこと十四ケ年、応永七年(西暦一四○○年)三月、嘉麻
郡碓井の館にて御不予、同十七日崩御し給うた。・・・(「あさくら物語」)。

大内氏、渋川VS小弐氏、菊池、大友

應永三十二年(1425) 小弐満貞は菊池兼朝とともに蜂起し、九州探題渋川義俊を筑前から
駆逐。七月、これを憂慮した大内盛見は京都から九州へ下り、小弐満貞を破り、満貞は菊池
を頼った。

永享三年(1431) 六月二十八日、大友持直は幕府の干渉に反発して小弐満貞と連盟し、大
内盛見を筑前怡土郡萩の原で自刃させる。

永享五年(1433) 室町幕府の勢力を背景に、大内持世が、大友持直・少弐満貞を攻め、少
弐満貞父子、筑前国秋月城に自刃する。

永享十一年(1439)
千手越前守が大内氏配下として鞍手の郡代を務めていたようです」(「嘉穂町議会だよ
り」)嘉吉元年(1441) 嘉吉の乱で大内持世・教弘が上洛した隙を突いて少弐教頼等
が蜂起し筑前豊前に乱入する。大内氏筑前に進攻して小弐氏を対馬に追い落とす

嘉吉二年(1442)
三月十一日 室町幕府、平賀頼宗の筑前国嘉麻郡千手城における協力を賞す。平賀
頼宗が大内教弘の軍に属して千手城の攻防戦に参加。(「嘉穂地方史古代中世編」)三
月十四日 室町幕府、平賀頼宗被官人の筑前国嘉麻郡馬見における軍忠を賞す。少
弐勢と馬見に戦った折、その被官が疵を受けたので、大内教弘が幕府に注進し、幕府
はこれを賞した。(「嘉穂地方史古代中世編」)
「(大内氏は)少弐・大友の残党を、その子教弘に討たせている」。「この戦いのとき、在
地豪族がどのような行動を取ったかは明らかではないが、千手城を守っていたのは
手氏のようで、千手氏はこの後豊前に遁れその地で勢力を蓄えたようである」。(「碓井
町誌」)

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戦国時代

応仁元年(1467) 応仁の乱勃発、大内政弘は西軍の主力として上京する

文明元年(1469) 少弐教頼・頼忠、対馬の宗盛直と共に筑前に進攻し旧領を回復する。知
行地を与えられた家臣団は盛んに荘園の横領を行った

文明六年(1474) 大内政弘、幕府に降伏し、翌翌年より九州へ反攻

(筆者注、文明年間、千手寺が破壊されている。その後、文明十四、五年頃真言宗から曹洞
宗に変わり再建される。なお、嘉穂町教育委員会福島氏は大内氏が曹洞宗であること、文明
十八年秋月氏も曹洞宗の大竜寺を建立していることから、秋月・千手氏が大内氏の家臣団に
組み込まれる過程で一種の教化があったと推測されている)

文明十年(1478)
九月十六日、前年京都より戻った大内政弘が北九州を奪回する。

十月十三日 桑野新兵衛尉正達、筑前国那珂郡薬井村内五町地を安堵される。十月
十三日 千手右馬允盛景、筑前国早良郡山門庄内五町地を安堵される。十月十三日
 千手弥太郎正景、筑前国早良郡山門庄内五町地を安堵される。十月十三日 桑野
近江守盛達、筑前国穂波郡榎本十町地を安堵される(「正任記」大内政弘の臣である陶
弘護の祐筆、相良正任の日記)

千手越前入道道呻が秋月種朝と共に千葉氏追討を命ぜられています。命じたのは大
内政弘で、両氏が大内配下にいたことは確実です」(「嘉穂町議会だより」)

文明十二年(1480)
「宗祇という日本一の連歌師が、大内政弘の招きで筑前に来ます。木屋の瀬の筑前守
護代陶弘の館に泊まりますが、同席者に千手治部少輔興国がいました」(「嘉穂町議会
だより」)(筆者注、宗祇「筑紫道記」では、千手治部少輔としか記されていない。)

文明十五年(1483) 少弐頼忠(政資)、肥前綾部城の名目だけの九州探題・渋川万寿丸を
攻める

長享元年(1487) 少弐政資、九州探題を再び攻め、肥前四郡と筑前上座郡を支配下に置く

明応五年(1496) 少弐政資、大内政弘の死去に乗じて筑前に乱入、大内義興は大軍を九
州に送り、翌年大内方が勝利する→少弐氏事実上の滅亡

永正五年(1508)
「永正五年足利将軍義植自防州山口帰京(千手)冬種供奉有功」(千手氏系譜(嘉穂郡
誌(大正版)))

大永五年(1525)閏正月 
1524年秋、秋月種時、陶美作守とともに大友の所領筑前筑後の地を略するが、陶の
敗報を聞き杷木まで出るが夜中半ばは逃散。相従うもののなかに千手河内がいる。
(「高鍋藩本藩実録」)

永正天文年間、千手信濃守冬種鬼城による(「嘉穂郡誌」所載の「千手氏系譜」)

天文元年(1532)
「天文元年大内義隆征筑州生葉郡星野常陸介親忠之貶、秋月並千手冬種随大内攻
之」(千手氏系譜(嘉穂郡誌(大正版)))

天文三年(1534) 四月、大内義隆、大友軍と勢場(ぜいば)ケ原に戦い大敗。

天文四年(1535)
「大内義隆が大宰府天満宮月次連歌結番を定めた中に、秋月伊豫守、千手治部少輔
と共に・・・名を連ねている」(「嘉穂地方史古代中世編」)(筆者注、この後、天文十三、
十五年にも興国が見られるという。)

天文七年(1538) 将軍義晴の仲介により、三月に大内・大友の間に和睦が成立し、筑前秋
月で調印がなされた。

天文二十一年(1552)
六月二十八日 豊前国田河郡阿多賀村参拾町は、千手治部少輔に還補されていた
が、彼地は父満種を討ち奪った土地であるから、先例通り重ねて改易し志波中務少輔
持種に還補せしめるとの大内義長袖判安堵状あり。(「古代中世田川郡編年資料」)(志
波持種先知行の豊前国田河郡阿多賀村替地を申し上げたところ、この地は父遠江守満
種が千手治部少輔興国に討たれ興国に還補されていたが、狼藉不穏便にて改易し、
重ねて持種に還補せしめるとの鑑実、重矩、晴賢連署状あり。(「古代中世田川郡編年
資料」)

天文二十二年(1553)「戦国期には大内氏の筑前5人衆にまでに成長した千手氏は、天文2
2年にも筑前衆としてその名が記されています」(「嘉穂町議会だより」)

弘治元年(1555) 毛利元就、厳島で陶晴賢の軍を破る。翌々年、大内氏滅亡

弘治二年(1556)
六月八日 佐田弾正忠隆居、筑前国千手、馬見において、秋月文種の軍と戦う。(「碓
井町誌」)

秋月文種、弘治年中豊前の国まで御手に入り、同国馬見岳の城へ家老を篭めおかれしに大
友より取りかけ防戦数日に及び遂に篭城全かりし。

弘治三年(1557)七月十二日、秋月文種、古処山城に自刃する。「中国ノ毛利元就ニ種方公
ハ一味シ玉ヒ大友ト合戦アリ」「同(七月)十八日、種方公不慮ノ大変出来テ秋月城没落ス」
(「高鍋藩本藩実録」)

千手氏香春城落城、しかし戦国の風は止まず

永禄二年(1559)
秋月種実が山口より筑前に帰陣した年の近習帳に、千手河内、千手和泉、千手石見
の名が見える(「藩史考一、千人近習帳」)。
また別書には、加えて、千手?之丞、千手三五郎の名も見える(「秋月家百人宿老千
人近習帳」)。種実の秋月帰還を永禄十年とする説もある。
「馬見山ハ千手河内興国カ居城也ト云」(「高鍋藩本藩実録」)
「永禄二年大友義鎮与毛利元就、戦筑前博多貶、随大友同年七月原田五郎親種攻香
春、千手戦死」(千手氏系譜(嘉穂郡誌(大正版)))

永禄四年(1561)
「永禄四年六月十五日大友義鎮攻香春城、七月十六日(原田)親種戦死、大友置番
兵。」(千手氏系譜(嘉穂郡誌(大正版)))

永禄五年(1562)「戸次鑑連、豊前香春岳に拠る千寿宗元を降す」(「筑前戦国史」p.27)

永禄七年(1564) 
毛利大友和睦後、大友宗麟はそれまで毛利方であった香春岳城に、千手鑑元入道宗
を置く(「北九州戦国史」)。

永禄九年(1566) 
九年末、毛利方香春岳城を回復したが、千手氏の処遇不明(「北九州戦国史」)。
十一月九日、秋月種実、毛利のため手柄働きをして、千手惟隆を討ち取る(「北九州戦
国史」萩藩閥閲録山田文書)。

永禄十年(1567)
秋月、筑紫、立花、原田等、毛利氏の支援を受け大友に叛く。千手入道宗元ら、毛利
に内応して、両国の留守が長いことを理由に帰った⇒休松の合戦
「永禄十丁卯年八月十五日夜於筑前並松戸次伯耆守道雪入鑑連侍雑兵秋月一手ニ而
討捕之首数覚・・・首一 千手平左衛門討捕」(月見討首帳「秋月家記録抄」)。
「陰徳太平記」巻四十一に記して云ふ。・・・かかれば、麻生上総介元重・宗像氏景・同重
継・城中中務・長野三郎左衛門・千寿美濃守鑑元・後藤寺源太左衛門等の者共も、高橋
に語らはれ、志を合せける間、宗麟、大きに怒り、・・・(「あさくら物語」)
田川勾金荘、庄内岩丸名八町が千手氏によって横領された(「田川市史」)。

永禄十一年(1568)
八月、秋月種実、大友に降伏する。続いて、千手等の諸豪も大友に降った。(「筑前戦
国史」p.42)
十一月十九日 大友宗麟、豊後国玖珠郡の諸氏に対し、筑前国千手要害以下のことを
報ず(「碓井町誌」)

永禄十二年(1569)
正月二十六日 筑前国嘉麻郡馬見城、陥落す。馬見城が落ちたというのは、高橋鑑種
方の者の守る同城を、大友方が攻め落としたものと推測される。(「碓井町誌」)
毛利勢立花陣撤退後、宗麟、香春岳に千手氏を置いた。
十月十七日 宗麟、毛利方の笠木城等に放火した千手尾張守(重盛か)の功績を賞し
た(「北九州戦国史」)。

天正二年(1574)
十一月 麻生摂津入道への毛利輝元書状に「就千手方被申越之儀、御使者之旨、令
承知候、彼方入魂之至本望候、就夫田河郡半分宛事承候、得其心候、以静謐之上、御
馳走次第可申談儀不可有疎略候、猶自隆景(小早川)可被申上候」とあり。千手氏田川
郡半分の領地を欲し、麻生摂津入道を介し、毛利輝元に頼み了承される。(「古代中世
田川郡編年資料」(麻生文書、九州史料叢書三九))

天正六年(1578) 十一月十一日、大友宗麟、耳川の戦いで大敗する。

十二月、秋月・筑紫連合して岩屋を攻める。大宰府天満宮焼失のため、夜須郡栗田に移す。

香春千手氏滅ぶ?

天正七年(1579) 
二月、毛利・秋月と結んだ高橋鑑種が、「兵千人をもって風雨の夜を利用して、鬼ケ城
(田川郡香春岳)の城主千壽美濃守重盛を攻めた」。「当時、美濃守の妻が出産のため
山を下り麓の高城寺の館にいたが、美濃守もまた妻を見舞うため、下山して城を留守に
していた。その時たまたま高橋に内通する者があったので、鑑種は好機とばかり不意に
攻め寄せたのである。美濃守は急変を知ると、直ちに山を登り、手勢を率いて高橋の軍
勢を引き受けて奮戦したが、力及ばずその臣笹原八左衛門の勧めで切腹して果てた」。
「その郎党古多部大炊助なるもの城中にありしが、味方落ち失せければ討死せんと思
へども、主人重盛夫妻心許なければとて、敵数人を切り倒し、麓に下りて見れば重盛は
既に戦死し居りたるを以て、重盛の妻室を伴ひて落ち行きたり。出生子は乳母小宰相の
懐に入れ、外戚の祖父杵月の城主杵月入道宗固の許に行きたりと云ふ」(「筑前戦国
史」p.120)
高橋鑑種は、香春岳を守っていた大友方の千手鑑元と、高取城の毛利鎮実を追い払
い、香春岳城を本城として養子の高橋(秋月)元種を置く。(毛利藩古文書)
高橋鑑種は田川郡(天正二年の項参照)を手に入れ、馬ガ岳城に秋月種実の弟(子とも
いう)の種信を入れ、長野氏の名跡を継がせている。(鑑種は7年4月に死去している。)
「天正七年頃秋月持城並地頭覚・・・一 千手地頭 千手河内 悪田惣善次 預り」(天
正七年持城並地頭覚「秋月家記録抄」)

天正八年(1580)
隆信公幕下着到帳に、千手、知行面積三百九町、とある(「五ヶ国御領地之節配分帳-
隆信公幕下着到-(佐賀県立図書館所蔵)」)。ただし、筑前の武将として、秋月や麻生と
ともに記される。
「天正八庚辰年二月二十八日之夜討ニ戸次鎮連一万田宗慶志賀道輝田北紹銕朽網宗
歴方於豊前国田河郡猪膝秋月一手に而討捕首数覚・・・首五 千手和泉手ニ討取 首
五 千手河内手ニ討取 首五 千手河内組討取 首五 千手和泉組討取」 

天正九年(1581)
「石坂・八木山合戦とは、秋月方の諸城を攻めんとして、筑後生葉郡に・・・豊前の長野、
城井、千手、宗像らの応援を得て・・・」(「筑前戦国史」p.146)

天正十二年(1584)
三月二十四日 龍造寺隆信、島原沖田畷にて討死。
十一月、千手刑部左衛門?千手民部丞?の名前が記録されている(「肥後蒲池文
書」)。

天正十三年(1585)
「秋月種実、筑紫広門は、道雪の死を聞くと、その死の翌日、九月十二日には早くも紹
運の次男統増が守る宝満城を乗っ取ろうとしめし合わせ、筑紫方の千手六之丞を将と
して三百人の兵を率い、全員修験姿の扮装で、その夜密かに宝満の嶮を攀じ登り、上
宮に出た」。(「筑前戦国史」p.227)
(広門は翌十四年には紹運の子統増(立花直次)との間に婚姻を成立させ、大友方に鞍
替えする。島津氏に付いた秋月種実と袂を分かち、大友方の背後にある秀吉の力にか
けたのである・・・広門は筑後上妻郡一万八千石を安堵される)(学研「戦国九州軍
記」)。その後、山下城を経て福島に移り、関が原では立花宗茂とともに西軍について改
易される)。

なお、佐賀の千手正博氏所持と思われる千手氏系図には、千手六之丞(寛永五年(16
28)卒、墓佐賀郡多布施村宗智寺(〒8400842佐賀市多布施4-4-3、0952-22-9018))
が記される。

天正十四年(1586)
七月二十四日 (秋月は)島津家とともに高橋入道紹運が居城、筑前三笠郡岩屋城を攻
め、ニ十七日落城させる。相従う家臣の中に、千手平左衛門千手刑部が見える。ま
た、首帳にはこの他千手三十郎が見える(「高鍋藩本藩実録」、岩屋落城首帳「秋月家
記録抄」)
(筆者注、綾部氏によれば、「何に書いてあったか失念しましたが、千手平左衛門という
人物は諱を種延といったようなので、(大蔵姓であることは)一概に否定もできないようで
す」とのことである)

天正十五年(1587) 
四月一日 岩石城秀吉に奪われる。

四月三日 秋月種実・種長父子、秀吉に降参。

七月三日 秋月種長、下関にて日向高鍋の朱印状を受ける。

慶長二年(1597)
八月二十七日 朝鮮討ち取り、首数八、千手三十郎。首数三、千手次郎。首数三、
手平左衛門。首数一、千手十郎。(「高鍋藩本藩実録」)

慶長三年八月十八日 豊臣秀吉死去。

慶長五年九月十八日 関ヶ原陣で、秋月種長は大垣城にあったが、兄弟の相良・高橋と相計
り、家康公に降参し、領地安堵される。


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