古代中世編年史料 上古〜古代 天智天皇(626〜671)
九州武士団発生、荘園や大宰府退官者(大蔵系) (1150〜頃)
元暦二年(1185)
(筆者按ずるに、やはり原田種直の息子のいずれか(千手五郎種宣、嘉摩兵衛重国、あるい は、賀摩兵衛尉種益)が、平家の滅亡と、秋月庄の拝領に伴って、十三世紀頃に嘉摩地方に 移り住み、千手氏を名乗ったのが始まりではないかと思える。種直の妻は清盛の異母弟であ る平頼盛の娘だったので、平氏の子孫でもあることになる。後述する千手寺脇の伝長慶天皇 陵は、そうした千手氏初代の墓である可能性がある)。
鎌倉時代 平氏側武士没落(原田氏)、鎌倉からの下り衆守護に(武藤(少弐)氏) 建仁三年(1203)
文永十一年(1274) 文永の役 建治二年(1276)
弘安四年(1281) 弘安の役 鎮西探題の設置、大宰府(小弐氏)の衰微 永仁五年(1297) 北条実政を正式の鎮西初代探題として博多に下した 元亨三年(1323)
南北朝 足利尊氏(少弐貞経)VS宮方(菊池武敏、千手・秋月氏) 元弘三年(1333) 後醍醐天皇の挙兵に呼応し、少弐貞経、大友貞載らは、筑前姪浜城に探 題北条英時を攻撃して滅亡させた。 建武三年(1336)
建武四年(1337)
の城に入る。
室町時代 九州南朝勢の黄金時代と、畿内での大内氏台頭 正平八年(1353) 二月、少弐氏と連合し、南朝勢、筑前針摺原で一色勢(北朝側)破る→二 年後、一色氏京都へ去る 正平九年(1354)
正平十四年(1359) 八月、大保原(筑後川)の戦いで征西将軍懐良親王を奉じた菊池武光 の南朝勢、小弐頼尚の北朝側に壊滅的打撃を与える。 正平十六年(1361) 南朝軍、征西将軍府を大宰府に置く。少弐頼尚と大友氏時、南朝側に 属し、南朝側菊池武光、完全に九州を制圧する。 正平二十三年(1368)
應安三年(1370) 足利義満、九州探題に今川了俊を任命する。 應安四年(1371)
文中二年(1373) 十二月、懐良親王が長慶天皇を九州に奉迎。(インターネット記事、出典不明) 天授元年(1375) 了俊、南軍の主力菊池勢を肥後の本拠に追詰め、水島の陣にて、少弐 冬資誘殺される。 永和四年(1378) 長慶院は僧形となって諸国宮方を励ますべく修行の旅に出た(「後太平 記」) 弘和元年(1381) 菊池本城陥落-菊池武資の抵抗(「桜雲記」) 弘和3年(1383) 10月末、11月初めのころまで長慶天皇の在位は確実であるが、同年末 か、翌元中元年(1384)閏9月前の間に譲位した。(『国史大辞典』村田正志) 元中元年(1384)
應永元年(1394)千手信濃守興房、少弐頼光を討ち亡ぼして鬼が岳に居城。(田川郷土史 年表(豊陽古城記)) 應永二年(1395) 今川了俊、幕府より九州探題職を罷免される 應永五年(1398) 「正月 原田種成、大内盛見に従い香春城を攻略す。原田種光を奉行に命じ、民政を司らし む」(「大蔵姓原田氏史料附録 大蔵姓原田氏系譜 稿」) 應永六年(1399)
應永七年(1400)
大内氏、渋川VS小弐氏、菊池、大友 應永三十二年(1425) 小弐満貞は菊池兼朝とともに蜂起し、九州探題渋川義俊を筑前から 駆逐。七月、これを憂慮した大内盛見は京都から九州へ下り、小弐満貞を破り、満貞は菊池 を頼った。 永享三年(1431) 六月二十八日、大友持直は幕府の干渉に反発して小弐満貞と連盟し、大 内盛見を筑前怡土郡萩の原で自刃させる。 永享五年(1433) 室町幕府の勢力を背景に、大内持世が、大友持直・少弐満貞を攻め、少 弐満貞父子、筑前国秋月城に自刃する。 永享十一年(1439)
嘉吉二年(1442)
戦国時代 応仁元年(1467) 応仁の乱勃発、大内政弘は西軍の主力として上京する 文明元年(1469) 少弐教頼・頼忠、対馬の宗盛直と共に筑前に進攻し旧領を回復する。知 行地を与えられた家臣団は盛んに荘園の横領を行った 文明六年(1474) 大内政弘、幕府に降伏し、翌翌年より九州へ反攻 (筆者注、文明年間、千手寺が破壊されている。その後、文明十四、五年頃真言宗から曹洞 宗に変わり再建される。なお、嘉穂町教育委員会福島氏は大内氏が曹洞宗であること、文明 十八年秋月氏も曹洞宗の大竜寺を建立していることから、秋月・千手氏が大内氏の家臣団に 組み込まれる過程で一種の教化があったと推測されている) 文明十年(1478)
文明十二年(1480)
文明十五年(1483) 少弐頼忠(政資)、肥前綾部城の名目だけの九州探題・渋川万寿丸を 攻める 長享元年(1487) 少弐政資、九州探題を再び攻め、肥前四郡と筑前上座郡を支配下に置く 明応五年(1496) 少弐政資、大内政弘の死去に乗じて筑前に乱入、大内義興は大軍を九 州に送り、翌年大内方が勝利する→少弐氏事実上の滅亡 永正五年(1508)
大永五年(1525)閏正月
永正天文年間、千手信濃守冬種鬼城による(「嘉穂郡誌」所載の「千手氏系譜」) 天文元年(1532)
天文三年(1534) 四月、大内義隆、大友軍と勢場(ぜいば)ケ原に戦い大敗。 天文四年(1535)
月で調印がなされた。 天文二十一年(1552)
天文二十二年(1553)「戦国期には大内氏の筑前5人衆にまでに成長した千手氏は、天文2 2年にも筑前衆としてその名が記されています」(「嘉穂町議会だより」) 弘治元年(1555) 毛利元就、厳島で陶晴賢の軍を破る。翌々年、大内氏滅亡。 弘治二年(1556)
秋月文種、弘治年中豊前の国まで御手に入り、同国馬見岳の城へ家老を篭めおかれしに大 友より取りかけ防戦数日に及び遂に篭城全かりし。 弘治三年(1557)七月十二日、秋月文種、古処山城に自刃する。「中国ノ毛利元就ニ種方公 ハ一味シ玉ヒ大友ト合戦アリ」「同(七月)十八日、種方公不慮ノ大変出来テ秋月城没落ス」 (「高鍋藩本藩実録」) 千手氏香春城落城、しかし戦国の風は止まず 永禄二年(1559)
永禄四年(1561)
永禄五年(1562)「戸次鑑連、豊前香春岳に拠る千寿宗元を降す」(「筑前戦国史」p.27) 永禄七年(1564)
永禄九年(1566)
永禄十年(1567)
永禄十一年(1568)
永禄十二年(1569)
天正二年(1574)
天正六年(1578) 十一月十一日、大友宗麟、耳川の戦いで大敗する。 十二月、秋月・筑紫連合して岩屋を攻める。大宰府天満宮焼失のため、夜須郡栗田に移す。 香春千手氏滅ぶ? 天正七年(1579)
天正八年(1580)
天正九年(1581)
天正十二年(1584)
天正十三年(1585)
天正十四年(1586)
天正十五年(1587)
慶長三年八月十八日 豊臣秀吉死去。 慶長五年九月十八日 関ヶ原陣で、秋月種長は大垣城にあったが、兄弟の相良・高橋と相計 り、家康公に降参し、領地安堵される。
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