廃藩置県および第1次府県統合にかかわる太政官布告

前へ

凡例


目次 へ戻る

O:大政奉還・王政復古

1)大政奉還の上表文

○十月十四日 徳川慶喜奏聞
臣慶喜謹而皇国時運之沿革ヲ考候ニ昔 王綱紐ヲ解キ相家権ヲ執リ保平之乱政権武門ニ移テヨリ祖宗ニ至リ更ニ 寵眷ヲ蒙リ二百余年子孫相承臣其職ヲ奉スト雖モ政刑当ヲ失フコト不少今日之形勢ニ至候モ畢竟薄徳之所致不堪慚懼候况ンヤ当今外国之交際日ニ盛ナルニヨリ愈 朝権一途ニ出不申候而ハ綱紀難立候間従来之旧習ヲ改メ政権ヲ 朝廷ニ奉帰広ク天下之公議ヲ尽シ 聖断ヲ仰キ同心協力共ニ 皇国ヲ保護仕候得ハ必ス海外万国ト可並立候臣慶喜国家ニ所尽是ニ不過ト奉存候乍去猶見込之儀モ有之候得ハ可申聞旨諸侯ヘ相達置候依之此段謹而奏聞仕候以上

臣(徳川)慶喜,謹つつしみて皇国の時運の沿革を考え候そうろうに,昔,王(が)綱紐こうちゅうを解き,相家しょうか(摂関等の貴族が)権を執り,保平の乱(保元の乱・平治の乱で)政権(が)武門に移りてより,祖宗に至り,さらに寵眷ちょうけんを蒙こうむり,二百余年,子孫相承し,臣その職を奉ずと雖いえども,政刑,当を失うこと少なからず,今日こんにちの形勢に至り候も,畢竟ひっきょう,薄徳の致すところ,慚懼ざんくに堪えず候。况いわんや,当今とうこん外国の交際,日に盛んなるにより,いよいよ朝権一途に出申さず候そうらいては綱紀立ち難がたく候間そうろうあいだ,従来の旧習を改め,政権を朝廷に帰(=返)し奉たてまつり,広く天下の公議を尽し,聖断を仰ぎ,同心協力共に皇国を保護仕つかまつり候得そうらえば,必ず海外万国と並び立つべく候。臣慶喜,国家に尽くすところ是これに過ぎずと存じ奉り候。さりながら,なお見込の儀もこれあり候得そうらえば,申し聞くべき旨,諸侯ヘ相達置あいたっしおき候。これにより此の段,謹つつしみて奏聞そうもんつかまつり候。以上。


慶応3年10月14日 (太陽暦:1867年11月9日)
「法令全書」通番 慶応3年太政官布告 第1(参照)

※注)「法令全書」では慶応3年の通番第1太政官布告に対する「参照文書」としてこの上表文が収録されている。徳川慶喜の提出したこの上表文に対する朝廷の(当面の)回答を掲げ,諸藩の代表者へ上京(東京ではなく,京都への)を命ずる以下の布告が,「法令全書」冒頭に収録された最初の文書となっている。

十月十五日     諸藩へ
別紙之通被 仰出候ニ付テハ被為在御用候間早々上京可有之旨 御沙汰候事

別紙の通り仰おおせ出だされ候そうろうについては御用あらせられ候間そうろうあいだ,早々上京これあるべき旨,御沙汰候こと。

(別紙)
祖宗以来 御委任厚御依頼被為在候得共方今宇内之形勢ヲ考察シ建白之旨趣尤ニ被 思食候間被 聞食尚天下ト共ニ同心尽力ヲ致シ 皇国ヲ維持シ可奉安 宸襟 御沙汰候事
大事件外夷一条ハ尽衆議其外諸大名伺被 仰出者 朝廷於両役取扱自余之儀ハ召之諸侯上京之上御決定可有之夫迄処支配地市中取締等ハ先是迄之通ニテ追テ可及 御沙汰候事

祖宗以来御委任厚く御依頼あらせ候そうらえども,方今,宇内うだいの形勢を察し,建白の旨趣,尤もっともに思食おぼしめされ候間聞食きこしめされ,なお天下とともに同心尽力を致し,皇国を維持し,宸襟を安んじ奉たてまつるべく,御沙汰候こと。
大事件・外夷(の)一条は衆議を尽くし,その外ほか諸大名伺い仰せ出だされし者,朝廷両役において取り扱い,自余の儀はこれを召し,諸侯上京の上,御決定これあるべし。それまでのところ,支配地・市中取締り等は,まずこれまでの通りにて,追って御沙汰に及ぶべく候こと。

慶応3年10月14日 (太陽暦:1867年11月9日)
「法令全書」通番 慶応3年太政官布告 第1


2)王政復古の大号令

十二月九日   宮堂上へ諭告
徳川内府従前御委任大政返上将軍職辞退之両条今般断然被 聞食候抑癸丑以来未曽有之国難 先帝頻年被害悩 宸襟候御次第衆庶之所知候依之被決 叡慮 王政復古国威挽回ノ御基被為立候間自今摂関幕府等廃絶即今先仮ニ総裁議定参与之三職被置万機可被為 行諸事 神武創業之始ニ原キ縉紳武弁堂上地下之無別至当之公議ヲ竭シ天下ト休戚ヲ同ク可被遊 叡慮ニ付各勉励旧来驕惰之汚習ヲ洗ヒ尽忠報国之誠ヲ以テ可致奉 公候事

徳川内府(内大臣 徳川慶喜),従前御委任の大政返上・将軍職辞退の両条,今般断然聞食きこしめされ候そうろう。そもそも癸丑きちゅう(嘉永6=1853年:ペリー来航)以来,未曽有みぞうの国難,先帝(孝明天皇)頻年ひんねん宸襟しんきんを害悩されし御次第,衆庶の知る所に候。これにより叡慮決せられ,王政復古,国威挽回の御基おんもとい立たせられ候間そうろうあいだ,自今,摂関・幕府等(を)廃絶,すなわち今先仮に総裁・議定・参与の三職(を)置せられ,万機行わせらるるべく,諸事,神武(天皇)創業の始めに原き,縉紳・武弁,堂上・地下の別なく,至当の公議を竭けっし,天下と休戚を同じく遊ばさるべき叡慮につき,各おのおの勉励し,旧来驕惰の汚習を洗い,尽忠報国の誠をもって奉公致すべく候事。


一 内覧 勅問御人数国事御用掛議奏武家伝奏守護職所司代総テ被廃候事
内覧・勅問御人数・国事御用掛・議奏・武家伝奏・守護職・所司代,総すべて廃せられ候事。

一 三職人躰
 総裁
  有栖川帥宮  (熾仁親王)
 議定
  仁和寺宮  (嘉彰親王)
  山階宮  (晃親王)
  中山前大納言  (中山忠能)
  正親町三条前大納言  (正親町三条実愛)
  中御門中納言  (中御門経之)
  尾張大納言  (徳川慶勝)
  越前宰相  (松平慶永)
  安芸少将  (浅野長勲)
  土佐前少将  (山内豊信)
  薩摩少将  (島津忠義)
 参与
  大原宰相  (大原重徳)
  万里小路右大弁宰相  (万里小路博房)
  長谷三位  (長谷信篤)
  岩倉前中将  (岩倉具視)
  橋本少将  (橋本実梁)
   尾藩三人  (尾張藩3人:荒川甚作・田中不二麻呂・田宮如雲)
   越藩三人  (福井藩3人:毛受鹿之助・坂井十之丞・中根雪江)
   芸藩三人  (広島藩3人:桜井元憲・久保田秀雄・辻将曹)
   土藩三人  (土佐藩3人:後藤象二郎・神山郡廉・福岡孝弟)
   薩藩三人  (薩摩藩3人:岩下方平・西郷隆盛・大久保利通)

一 太政官始追々可被為興候間其旨可心得居候事
太政官,始め追々興せらるべき候間そうろうあいだ,その旨,心得おくべく候事。

一 朝廷礼式追々御改正被為在候得共先摂「ろく」*1門流之儀被止候事
朝廷礼式,追々御改正あらせられ候そうらえども,摂「ろく)」・門流の儀,止められ候事。
*1:「ろく」=「竹かんむり」+「録」


一 旧弊御一洗ニ付言語之道被洞開候間見込有之向ハ不拘貴賎無忌憚可致献言且人材登庸第一之御急務ニ候故心当之仁有之候者早々可有言上候事
旧弊,御一洗につき,言語の道,洞開せられ候間,見込これある向きは貴賎に拘かかわらず忌憚きたんなく献言いたすべし。かつ,人材登庸,第一の御急務に候故ゆえ,心当りの仁じんこれ有り候者もの,早々,言上あるべく候事。

一 近年物価格別騰貴如何共不可為勢富者ハ益富ヲ累ネ貧者ハ益窘急ニ至リ候趣畢竟政令不正ヨリ所致民ハ王者之大宝百事御一新之折柄旁被悩 宸衷候智謀遠識救弊之策有之候者無誰彼可申出候事
近年,物価(の)格別騰貴,如何いかんともなすべからず,勢富者は益々ますます富を累かさね,貧者は益々窘急きんきゅうに至り候趣おもむき,畢竟ひっきょう政令不正より致す所,民は王者の大宝,百事御一新の折柄おりがら,旁かたがた,宸衷しんちゅう悩ませられ候。智謀,遠識,救弊の策これある者,誰彼なく申し出ずべく候事。

一 和宮御方先年関東ヘ降嫁被為在候得共其後将軍薨去且 先帝攘夷成功之 叡願ヨリ被為許候処始終奸吏ノ詐謀ニ出御無詮之上ハ旁一日モ早ク御還京被為促度近日御迎公卿被差立候事 右之通後確定以一紙被 仰出候事
和宮御方,先年関東ヘ降嫁あらせられ候えども,その後将軍(家茂)薨去こうきょ,かつ先帝(孝明天皇)攘夷成功の叡願より許せられ候ところ,始終,奸吏の詐謀に出で,御詮これ無き上は,旁かたがた,一日も早く御還京(を)促させられたく,近日,御迎えの公卿(を)差し立てられ候事。

右之通後確定以一紙被 仰出候事
右の通り確定の後,一紙をもって仰おおせ出され候事。

慶応3年12月9日 (太陽暦:1868年1月3日)
「法令全書」通番 慶応3年太政官布告 第13




A:
府県設置
B:江戸改称・東京遷都
C:版籍奉還
D:廃藩置県
E:第1次府県統合

次へ

廃藩置県および第1次府県統合にかかわる太政官布告:
目次へ戻る

2004.12.30
2005. 1.14 改訂
ISIDA Satosi