「衆議院議員選挙制度の変遷」
トップページへ戻る
1956(昭和31)年 小選挙区区割案(通称:ハトマンダー)
第3次鳩山内閣提出 「公職選挙法の一部を改正する法律案」別表第1
(「官報」1956年5月16日付 号外:第24回国会 衆議院会議録第50号追録 による)
東日本:
北海道
東北地方
関東地方
中部地方
西日本:
近畿地方
中国地方
四国地方
九州地方
複数選挙区に分割される市区町村
定数を2とする小選挙区
[解説]
1994(平成6)年2月,55年体制崩壊後の非自民・非共産8党連立細川内閣の下で公職選挙法が改正され,衆議院議員選挙に小選挙区・比例代表並立制が導入されました。11月には自民・社会・さきがけ3党連立の村山内閣により小選挙区の区割りが公布され,それに基づく初めての総選挙が1996(平成8)年10月20日に実施されました。
この選挙法改正は,中選挙区制の下で半世紀にわたって続いた55年体制が政治腐敗の果てに崩壊した(と評価された)ことを受けて実現したものでした。
しかし戦後に小選挙区制の導入が話題になったのはこれが初めてではなく,それまでに何度も主に保守勢力の側から提案されてきました。
その中で最も実現に近づいたのは,保守合同によって55年体制がまさに成立した直後の第3次鳩山一郎内閣(←孫の由紀夫内閣と区別しておきましょうね)による選挙制度改革でした。
1956(昭和31)年3月19日,第3次鳩山内閣は衆議院議員の選挙制度を小選挙区制とすることを主たる内容とする公職選挙法改正案を第24通常国会に提出しました。
これは衆議院の467議席を中選挙区制で選出している従前の制度に替えて,議席を30増やした上でその497議席を各選挙区から1人ずつ選出することを原則とする小選挙区制を導入する,というものです。
この改正法案には,提出の段階で既に具体的な小選挙区の区割り表が完成された状態で掲載されていました。
法案はまず衆議院で審議され,3月26日に開かれた衆議院公職選挙法改正に関する調査特別委員会における法案説明で所管大臣の太田正孝国務大臣(自治庁長官)は法案の骨子を次のように説明しています。
- 定数は現行の30議席増の497議席とする。
- 1955年国勢調査人口を都道府県別に按分
- 現行定数より減る県について現行定数を維持
- 議員1人当たりの人口は17万9628人
- 区割の原則
- 離島・山間地域等の特殊な事情のある場合を除き,なるべく当該都道府県の議員1人当たりの平均人口に近からしめる。
- 選挙区となるべき一団の地域は,地勢・交通・人情・行政的沿革等,諸般の事情を総合的に考慮する。
- いわゆる飛び地の選挙区は原則として設けない。
- 町村の区域はこれを分割しない。
- 平均人口以下の市及び区の区域は,原則としてこれを分割しない。
- 特殊な事情のない限り郡の区域は尊重する。
- やむを得ない場合のほか,現行選挙区の境界にわたる選挙区は設定しない。
この「原則」に従って画定されたのが,次の表のような区割です。
区割表
東日本:
北海道
東北地方
関東地方
中部地方
西日本:
近畿地方
中国地方
四国地方
九州地方
この区割は,それが明らかになった時から大きな批判を浴びました。
そもそも「原則」にある7つの項目のすべてを満たして,なおかつすべて1人区の497選挙区を設けるというのは極めて困難です。必ず平均人口(17万9,628人)を著しく超えた市町村または「選挙区となるべき一団の地域」があるからです。
この問題を解決するには2つの選挙区に分割するほかに,もう1つの方法があります。
それは適当に分割することが困難である場合に2つの選挙区を合わせて2人区とする,という方法です。もちろん小選挙区制の定義から外れるわけですが現実には必ずしも禁じ手ではなく,戦前に衆議院で小選挙区制が採用された時にもいくつかの選挙区が2人区とされています(1919年の区割では3人区まであります)。
結果,この改正案では20もの2人区が設けられました。
小選挙区制なのに2人区
もちろん,多くの市区町村が複数の選挙区に分割されました。
複数選挙区に分割される市区町村
批判の的となったのは,これら2人区の設定や市区町村の分割も含め,区割そのものが非常に恣意的なものではないか,という点でした。
社会党をはじめとする野党が「この区割は与党に有利」と批判するのはよくある話として,当の与党である自民党内部からも強い不満と反発が出ました。
自由民主党(自民党)は,この法案提出のわずか半年前の保守合同で自由党(吉田茂系)と民主党(鳩山一郎,重光葵,岸信介系)とが合併して発足したばかりの政党でした。その直前の総選挙(1955年1月)では同一の選挙区からお互いに対立する候補として戦い合った者同士が同じ政党に属することになりました。それが少なからず小選挙区の区割画定にも影響してくるはずで,そうして見るとたとえば選挙区の分割などの点で,どうも旧民主党候補の側に有利なのではないかと,主に旧自由党側の候補・党員から異論が出されました。もちろん,その逆もたくさんあったようです。
この区割がどの程度恣意的なものかは現時点では判断できません。ただ,今から見ても「?」と思うような区画は少なからずあります。
「原則」ではその3項目めでいわゆる飛び地の選挙区は原則として設けないとしていますが,実際の区割ではこれに反して次の6選挙区が飛び地を持つことになりました(この場合,離島や所属市町村自体の飛び地は対象外とします。また,以下の行政区画は1956年3月当時のものです)。
| 山形県4区: | 上山市;東村山郡,南村山郡,北村山郡東根町 --> 山形県 |
| 東京都30区: | 足立区(第29区に属しない区域) -->東京都 |
| 神奈川県3区: | 横浜市保土ヶ谷区・港北区(北部) -->神奈川県 |
| 長野県11区: | 東筑摩郡,西筑摩郡 -->長野県 |
| 島根県2区: | 安来市;八束郡,能義郡,隠岐支庁管内 -->島根県 |
| 広島県5区: | 安芸郡 -->広島県 |
このうち,山形県と長野県の例については,それぞれの区域から市部である山形市(1区)と松本市(10区)を独立させた結果,飛び地ができた,と理解できます。足立区の場合は逆に,人口密度がより低い分面積が広い北西部(29区)を独立させた結果,荒川以南の区域と東部とが残った,と理解できます。いずれも飛び地とはいえ,見方によれば自然なものと言えなくもありません(ちなみに,長野県の西筑摩郡は現在の木曽郡です)。
また,島根県と広島県の場合は間に海があったりしてやや変則的なのですが(前述の通り,ここでは隠岐の飛び地は話題の対象外とします),広島県の場合は前2者と同様に呉市の区域(6区)を安芸郡の区域から独立させた結果と見ることができます。島根県の場合も松江市の区域を取り出して出雲南部3郡(1区)と組み合わせたと見えますが,次の神奈川県の例ほどではないけれども,なぜ出雲北東2郡と一緒にしなかったのかという疑問は若干残ります。結果的に,中海に浮かぶ大根島などを無視すれば,松江市が2区の区域に割り込んで北側の八束郡と南側の能義郡の区域に分断されるように見えるのです。
そうした点で神奈川県の場合は,やはり変です。港北区(現在の緑区・青葉区・都筑区を含みます)を南北に分割するのは良しとして,なぜ南半部を東隣の神奈川区と合わせ(4区),その南半部をわざわざ跨いで北半部と南隣の保土ヶ谷区(現在の旭区を含みます)を合わせる(4区)のか。人口のバランスに問題があるのであれば,港北区内の線引きを工夫すれば,普通に南半部を保土ヶ谷区と,北半部を神奈川区と合わせて飛び地が生じることがないように思うのですが,何か特別な事情があったのでしょうか。
そもそももっと根本的な疑問として,ある区域では無理でも(「原則」に反してでも)市や郡を分割して定数1の選挙区を作っているのに,なぜ別の区域は分割せずに定数2の選挙区とされているのか,ということがあります。分割するか否か,それ自体に恣意性を感じずにはいられません。もしかしたら関係あるかもしれないと思って,「小選挙区制なのに2人区」の表には当該の区域を含む中選挙区で保守合同をはさんだ前後の選挙区で旧自由党・民主党および自民党からの立候補者を掲載しておきました。ここから何かがわかるでしょうか。
そんなこんなで,この区割案はとてもツッコミ所満載。
さらに,自民党では主に旧民主党系の人たちの主導で憲法改正を具体的な政治課題として掲げていましたから,それを警戒するマスコミなどからも衆議院で与党・自民党が3分の2を獲得する第一段階とみなされ,強く批判されました。
そして,恣意性が否めない奇妙な選挙区割を意味するゲリマンダーをもじってついたあだ名が「ハトマンダー」。
そんなあだ名で揶揄されるくらいこの区割案は歓迎されず,自民党内部からの反対もあって,衆議院では区割にかかわる部分を切り離す修正を行った上で(つまり,小選挙区制を導入するという部分だけ残して)5月16日に可決されました。それも形だけのもので,結局,参議院では審議未了とされ,廃案となりました。
この失敗は長く尾を引くことになりました。
自民党による小選挙区導入のもくろみは,その都度憲法改正と関連付けられて強く警戒されました。
1973(昭和48)年には当時の第2次田中内閣が積極的な姿勢を見せましたが,これも「カクマンダー」という非難を浴びて,法案作成まで至らずに頓挫しました。
中選挙区制の時代を通じて自民党は衆議院で3分の2を確保することができず,したがって憲法改正を具体的な政策課題とすることもできずに終わりました。
そして,政治腐敗への批判が極度に高まった1990年代に至ってようやく,憲法改正よりは政治改革の視点からの小選挙区制導入論へ論点が移って行ったのです。
東日本:
北海道
東北地方
関東地方
中部地方
西日本:
近畿地方
中国地方
四国地方
九州地方
1991年:第2次海部内閣による小選挙区区割案
1994年改正公職選挙法による小選挙区区割
「衆議院議員選挙制度の変遷」
トップページへ戻る
2002. 8.20
2005. 8.18
2013. 8. 5 解説文追加
2013. 8.17 区割図追加
ISIDA Satosi