版籍奉還から廃藩置県まで

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版籍奉還以前の藩の異動

明治2年6月17日(太陽暦:1869年7月25日),かねて各諸侯(旧大名)から出されていた版籍奉還の願い出が許可され,改めてが明治政府の下での行政区画とされて諸侯たちは順次知藩事に任命されました。この結果,政府直轄の府・県と並立して諸侯の管轄下にあるにより全国(北海道と沖縄を除く)が統治される,いわゆる府藩県三治体制が確立し,明治4年7月14日(太陽暦:1871年8月29日)の廃藩置県によってすべての藩が廃止されるまで続きます。

ここでは版籍奉還直後から廃藩置県を経て同じ年の11月(旧暦)の第1次府県統合によって国郡を単位とした3府72県に統合されるまでの府藩県の変遷を表にまとめました。なお,第1次統合以降の府県の変遷については,こちらをご覧ください。

府県の変遷

この表をご覧になるにあたり,以下の点にご留意ください。

黒字:旧国名
緑字:第1次府県統合(1871年11月)段階の府県名
青字:現在の都道府県名
北海道・東北 渡島国 陸奥国 陸中国 陸前国 磐城国 岩代国 羽後国 羽前国
青森県 盛岡県 一関県 仙台県 平県 二本松県 若松県 秋田県 酒田県 山形県 置賜県
北海道(部分) 青森県 岩手県 宮城県 福島県 秋田県 山形県
関東 常陸国 下総国 上総国 安房国 下野国 上野国 武蔵国 相模国 伊豆国
茨城県 新治県 印旛県 木更津県 宇都宮県 栃木県 群馬県 入間県 埼玉県 東京府 神奈川県 足柄県
茨城県 千葉県 栃木県 群馬県 埼玉県 東京都 神奈川県 静岡県(部分)
中部 佐渡国 越後国 越中国 能登国 加賀国 越前国 若狭国 甲斐国 信濃国 飛騨国 美濃国 駿河国 遠江国 三河国 尾張国
相川県 新潟県 柏崎県 新川県 七尾県 金沢県 福井県 敦賀県 山梨県 長野県 筑摩県 岐阜県 静岡県 浜松県 額田県 名古屋県
新潟県 富山県 石川県 福井県 山梨県 長野県 岐阜県 静岡県 愛知県
近畿 伊勢国 伊賀国 志摩国 近江国 山城国 丹波国 丹後国 但馬国 河内国 和泉国 摂津国 播磨国 大和国 紀伊国
安濃津県 度会県 長浜県 大津県 京都府 豊岡県 堺県 大阪府 兵庫県 姫路県 奈良県 和歌山県
三重県 滋賀県 京都府 大阪府 兵庫県 奈良県 和歌山県
中国 因幡国 伯耆国 出雲国 隠岐国 石見国 美作国 備前国 備中国 備後国 安芸国 周防国 長門国
鳥取県 島根県 浜田県 北条県 岡山県 深津県 広島県 山口県
鳥取県 島根県 岡山県 広島県 山口県
四国 淡路国 阿波国 讃岐国 伊予国 土佐国
名東県 香川県 松山県 宇和島県 高知県
兵庫県(部分) 徳島県 香川県 愛媛県 高知県
九州 筑前国 筑後国 対馬国 壱岐国 肥前国 肥後国 豊前国 豊後国 日向国 大隅国 薩摩国
福岡県 三潴県 伊万里県 長崎県 八代県 熊本県 小倉県 大分県 美々津県 都城県 鹿児島県
福岡県 佐賀県 長崎県 熊本県 大分県 宮崎県 鹿児島県


[解 説]

府藩県三治体制の成立

慶応3年12月9日(太陽暦:1868年1月3日),京都御所において明治天皇睦仁の名で新政府樹立が宣言されました。
「王政復古の大号令」と呼ばれるものです。
かねて徳川慶喜から願い出されていた政権の返上と将軍職の辞任(10月14日[=太陽暦:11月9日]:大政奉還の上表文 )が許可され,将軍職幕府が廃止されました。同時に,朝廷側でも摂政・関白をはじめとする旧来の制度が全廃され,総裁・議定・参与三職天皇の下におく政府が発足しました。
これをもって17世紀初め以来2世紀半にわたった幕藩体制は崩壊し,鎌倉幕府以来の武家政権の時代も終わりを告げ,天皇政府による中央集権国家の建設へと向かうことになります。
もちろん,宣言だけで新政府が確立するわけはなく,年が明けた直後の鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争で旧幕府勢力の抵抗を排除していきながら,新政府の統治機構が徐々に整備されていきました。

慶応4年(9月に改元され明治元年)閏4月21日(太陽暦:1868年6月11日)に政体書が公布され,あまり実体のなかった三職政府に代えて,天皇とそれを補佐する2名の輔相を頂点とする太政官が設置され,その下で全国を統治するための地方制度も定められました。
それが,政府直轄地に設置された府・県諸侯(大名から改称)たちの支配下にあるとによる地方統治の制度です。
戊辰戦争の進展に伴い,新政府は旧幕府直轄領(天領)と旗本・与力らの領地を次々と接収してゆき,そこに順次またはを設置してゆきました。多くは旧幕府の奉行所(町奉行および遠国奉行)や代官所を引き継ぎ,基本的に主要都市に,農村部にを設置しています(しかし,明治2年7月17日[太陽暦:1869年8月24日]の 太政官布告 により,京都・東京・大阪の3つのみとされ,他はすべてに改称されました。 ---余談ですが,この布告では京都の方が東京よりも上位に置かれています)。
そして,諸侯たちの領地がとして初めて公式の行政区画に位置づけられました。

「藩」という呼称

実は,江戸時代を通じてという呼称が公式に用いられたことはないのです。
通常,とは大名の領地およびその支配のための機構と理解されているのですが,このような用法が定着するのはかなり遅くなってからで(もしかしたら,近代以降の日本史研究を通じて?),幕府による公式な呼称は領分・領知あるいは知行所でした。当初,という呼称を用いていたのは新井白石らに代表される一部の儒学者たちだけだったと言われています(勝田政治『廃藩置県』)。
公式名称でないのであれば,同一の藩に「伊達藩/仙台藩」「毛利藩/長州藩/萩藩」などというようにいくつもの呼称があるのも不思議ではないわけです。

そもそもというものを,律令制以来ののような行政区画と考えない方がいいのかもしれません。
(大名領)というのは将軍に臣従した大名に対して知行地として将軍からあてがわれたものであって,それは鎌倉将軍御家人に対して地頭職をあてがうのと本質的には変わらない。あてがわれた領地を支配するには当然統治機構が必要なわけであって,そのための組織が整備されていくわけだけど,彼らは別に律令国家の国司郡司のような地方官として任命されて赴任しているわけではない
だから将軍(幕府)は必要に応じて大名の領地を追加・削減したり没収したりもするし,その一方でとっくに現実の行政機能を失ってしまったのにもかかわらず国・郡といった地域区分が大名の領分を表す単位として使われつづけた(幕府は,中世以来の混乱で細分され変動したいくつかのについて古代の区画や呼称を復活させようとしています)。
そう考えてみてはどうでしょう。

ともかく,明治維新後の政体書によってはじめてが公式の行政区画となりました。そして,各藩は原則として藩庁所在地の名前によって「仙台藩」「山口藩」「高知藩」「鹿児島藩」などと呼ばれることになりました。

藩の領域

本来,大名の領地は必要に応じて将軍から与えられるものでしたから,その領地が連続した広がりを持っているとは限りません
もともと戦国大名として領域支配を行っていた外様大大名(伊達氏=仙台藩や島津氏=薩摩藩など)の場合は奥州大崎・葛西領(+その他数郡)とか薩摩・大隅2州(+日向南部)というまとまった領域を支配していましたが,そのような藩であっても意外な所に飛び地を持っていることは珍しくありません。
まして,徳川氏の領地の中から知行地をあてがわれる譜代大名であればなおさらです。特に各地に散在する小領地を掻き集めてようやく1万石に達する小大名の場合,藩の本拠地周辺の領地よりも他の領地の方が大きいような藩も多いのです。
たとえば,幕末から明治にかけて下総関宿藩(現千葉県東葛飾郡関宿町)の領主であった久世氏の場合,本拠地の下総よりも和泉(現大阪府南西部)に多くの領地を持っていました。太平洋戦争最末期の首相として終戦工作を行った鈴木貫太郎関宿藩士の出身(とはいっても,彼は慶応3年=1867年生まれですが)なのでしばしば千葉県の生んだ(唯一人の)首相と紹介されますが,実際は彼は和泉にあった飛び地領の代官の息子で,したがって大阪府の出身なのです。
さらに譜代大名や旗本・与力等の領地については江戸時代を通じてかなり頻繁に変更が行われました。これは大名の側から見ればたとえの位置や石高が変わっていなくても領地の範囲はかなり頻繁に変わる,支配される村の側から見れば領主が次から次へと(天領になることも含めて)変わる,ということです。そもそも,譜代大名は現代のサラリーマン(国家公務員も)が配置転換を繰り返すように,そのものの移転を繰り返していたのですが(現代と違うのは決して単身赴任がないことですね)。

明治元年末までに行われた戊辰戦争に関与した藩への処分徳川氏駿河府中(静岡と改称)移転にともなう駿河・遠江各藩の上総・安房への移転のほか,若干の領地の入れ替えが明治政府によって行われましたが,ほとんどの藩は幕末以来の領地をそのままに公式な行政区画としてのに移行しました。
これは各地に散在する幕府直轄地や旗本領などをまとめて管轄する政府直轄府県も同じであって,特に東京大阪の周辺ではそれらの府藩県の管轄地域がどちらが飛び地かわからないような状態で複雑なモザイクを構成していました。

徳川氏駿河府中(静岡)入封に伴う移転
戊辰戦争にかかわる処分

版籍奉還

明治2年1月20日(太陽暦:1869年3月2日),山口(長州)藩主毛利敬親鹿児島(薩摩)藩主島津忠義佐賀(肥前)藩主鍋島直大(なおひろ)・高知(土佐)藩主山内豊範は連名で,いわゆる版籍奉還の建白書を天皇に対して提出しました。もちろん彼ら自身の意思からではなく,彼らの家臣である木戸孝允大久保利通板垣退助大隈重信維新官僚たちのリードがあってのことです。
いわく,王政復古によりわが国の支配権は天皇の下に一元化された。であるなら,土地(版)や人民(籍)に対する支配権も天皇に帰するべきであり,したがって4人の藩主はともに自ら土地と人民とを天皇に返還することを申し出る。その後の処置は天皇がしかるべく取り計らっていただきたい,というもの。「しかるべく」原文は,

「願くは朝廷其宜(そのぎ)に処し,其(その)与ふ可(べ)きは之(これ)を与へ,其奪ふ可きは之を奪ひ,凡(およそ)列藩の封土更(さら)に宜(よろ)しく詔命を下し,これを改め定むべし。」

というわけで,ここには天皇から各藩主たちへ再び領地・領民の支配権が交付されることの期待ないしは願望が表明されて いる,という指摘もあります(前掲書)。
いずれにせよ,どこよりも有力な4人の藩主が願い出たわけですから,以後ほかの藩主たちも雪崩を打つように版籍奉還を願い出てゆきました。もちろん,奉還後の版籍の再交付を期待して。

これに対して政府は6月17日(太陽暦:7月25日),一斉に彼ら藩主たちの願い出を許可し,その上で今度は彼らを次々と知藩事(藩知事)に任命してゆきました。こうして彼らの地位は明治政府公認となるのですが,しかしこれは彼ら旧藩主たちの思惑とは微妙に違うものです。
彼らは政府から知藩事には任命されたわけですが,しかし土地と人民に対する支配権を与えられることはありませんでした。知藩事というのは政府(天皇)の任命する地方官であって,かつてのような領地・領民を支配するお殿様=領主ではないのです。知藩事の地位を世襲することは前提となってはいて,いくつかのでは廃藩置県までの2年の間に代替わりがありましたが,その任免の権限は天皇が握っていました。実際,明治4年7月(廃藩置県の直前)には藩内で起きた偽札事件の責任を問われて黒田長知福岡藩知事を罷免され,かわって有栖川宮熾仁(たるひと)親王が知藩事に任命されています。
おおよそ6月末までの間に旧藩主たちは,それぞれが以前の藩知藩事に任命(一部知藩事は同年末ないし翌年に任命)されましたが,その地位は政府直轄府県に配置された知府事・知県事と本質的に変わらず,という区域を管轄する地方行政官となったのです。しかし,このことによって明治政府による中央集権化は一歩前進しました。

知藩事任命一覧

廃藩置県へ

かつての藩主たちを知藩事に任命した政府は,次にの統治組織の統一を各藩に命じました。その中心をなすのが明治3年9月10日(太陽暦:1870年10月4日)に公布された藩制です。ここでは藩庁の職制を府県と同様のものとした上で,藩財政についても歳入の10%知藩事自身の収入(家禄)として残りを藩庁経費藩職員(つまりは旧家臣=藩所属の士族卒)の俸給とするなど,その運用のしかたに大きな統制を加えるものでした。要は,各藩が独自のやりかたで藩の運営を行うことができなくなったわけです。これもまた,大名の領地ではなく政府の地方行政区画であることの表れです。
しかしこれを裏返せば,これによって政府は府県と同様の行政区画として明確に位置付けたわけであり,この時点の政府は決してを廃止することを方針としていたわけではない,ということも意味します。

廃藩の動きは,むしろの方から現れてきました。
各藩にとって,幕末以来の社会の急変に対する出費への負担は非常に大きなものでした。2度の幕長戦争(長州征伐)とそれに続く戊辰戦争への出費は藩財政の悪化へのダメ押しとなりました。さらに明治政権下で強要された藩制度の改革を通じて,多くの藩の財政が破綻に向かったのです。
なかでも深刻なのは,もともと財政基盤の弱い小藩や,戊辰戦争で「朝敵」となり戦後の処分で所領の多くを没収された藩でした。
たとえば,官軍との激しい戦闘で戊辰戦争の主役の1つとなった長岡藩(越後国古志郡:牧野氏)の場合,戦闘で長岡城下町が焼き払われた上に,戦後の処分で7万4千石だった所領の3分の2にあたる5万石が没収されて2万4千石の小藩に転落してしまいました(実は,それ以前幕末の段階で長岡藩は幕府から領地替えを命じられ,信濃川左岸の丘陵地帯の農村と引き換えに藩にとって重要な財源であった港町新潟を奪われていました)。
当然,藩の財政は破綻し,支藩であった峰岡(三根山)(越後国蒲原郡)から「米百俵」の援助(小泉政権発足後,首相の施政方針演説で突如有名になりましたが,もともとの意味を[わざと]間違って流布しているように私には思えてなりません)を受けたりもしましたが藩を維持することはできず,知藩事の牧野忠毅(ただかつ)は明治3年10月19日(太陽暦:1870年11月12日)は政府に辞任を願い出て,10月22日(太陽暦:11月15日)長岡藩は廃止されて柏崎県に編入されました(つまり,朝敵藩だから長岡に県庁が置かれなかったわけではありません。柏崎県は長岡藩の廃藩前からすでにあったのです)。

これと前後して全部で13の藩が廃藩置県を待たずに廃止されました。多くは5万石以下の小藩ですが,中で目を引くのが明治3年7月10日(太陽暦:1870年8月6日)に廃止された盛岡藩(=南部藩,陸中国岩手郡:南部氏)です。
この藩も戊辰戦争後,朝敵藩の1つとして20万石から13万石に削減され,一度は同じ朝敵藩の仙台藩(陸前国宮城郡:伊達氏)から没収された領地の一部である白石(磐城国刈田郡)に移転され,版籍奉還後に盛岡に戻ってきたばかりでした。盛岡復帰の条件として政府から要求された多額の献金が命取りになりました。

当時の政府指導者の中で伊藤博文は,を全廃して郡県制をしき中央集権国家を確立することを明確に主張し,木戸孝允も伊藤ほど明確ではなくともそれに近い意見を持っていたようです。しかし政府指導者の大半は,少なくとも当面は府藩県三治体制の下,への統制を強めていきながら,一方ではを温存しつつ中央集権化を進めていこう,という方針でいたようです。その背景には,当時の政府は直属の軍を持たず,各藩が軍事力を所有しているという事情がありました。
しかし明治4年(1871年)に入ると,このような体制での中央集権化にあちらこちらで行き詰まりが見られるようになりました。政府はさまざまな対策を検討し,その中でやがて廃藩が現実の問題として浮上してきました。大久保利通ら政府指導者は西郷隆盛の協力を得て薩長土三藩の将兵による政府直属軍である親兵が創設され,軍事面で各藩に優位に立ちました。

このような情勢の下で,明治4年7月14日(太陽暦:1871年8月29日),政府は各藩の知藩事を皇居に呼び出してをすべて廃止してを置くことを一方的に宣言しました。
この宣言(天皇の詔書)をうけて,

七月十四日(布告)
藩ヲ廃シ県ヲ被置候事

という布告(「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第353)によって,「廃藩置県」が断行されました。
知藩事の誰もがその当日までこのことを知らなかったどころか,政府の(形式上の)トップにあった三条実美岩倉具視でさえそれを知らされたのは数日前,という処分でした。これを聞いた鹿児島(薩摩)事実上の支配者であった島津久光(知藩事は息子の島津忠義)が激怒して鹿児島の邸内で花火を打ち上げ,鬱憤を晴らしたとういのは有名なエピソードです。

廃藩置県以後

そもそも廃藩置県明確なビジョンと準備があって行われたものではありませんでした
それはの廃止とともに知藩事の全員が罷免されたのはいいとして,それに代わる知県事をはじめとする幹部の人事がすぐには行われず,当面は旧藩の組織がそれを代行したことにも表れています。さきの布告に続けて,

 七月十四日
今般藩ヲ廃シ県ヲ被置候ニ付テハ追テ 御沙汰候迄大参事以下是迄通事務取扱可致事
(今般,藩を廃し県を置かれ候については,追って御沙汰まで大参事以下これまで通り事務取り扱い致すべきこと。)


という布告(「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第354)が出されています。
(なお,大参事とは,「藩制」によって知藩事の下,全国のに一律に設けることが定められた職であり,現在の副知事に相当するものです。幕藩体制下の家老に当たるものでしょうか。)

島津久光がそうであったように,知藩事たち自身や周辺の旧藩幹部の中にはこの処分に反発する者もありましたが,政府指導者たちがもっとも恐れた藩の軍事力による反乱は結局1つも起こりませんでした。むしろ,新しい支配体制への不安から住民たちによる一揆が各地で発生しましたが,これはすぐに鎮圧されています。

何しろ突然のことですから,当面はに変わったこと以外には呼称にも領域にも変更はほとんどありませんでした。に変わっても,多くの飛び地が錯綜するモザイク状態は以前のまま変わりません。
たとえば,現在の神奈川県中央部相模川境川にはさまれた旧高座郡7市1町(相模原市,座間市,海老名市,綾瀬市,大和市,藤沢市,茅ヶ崎市,寒川町)の範囲では,幕末の段階でそのほとんどの区域が幕府領旗本領などであったので,政府による接収後は神奈川県(当初は神奈川府)の管轄となりました。しかし,現在の相模原市や海老名市,藤沢市の一部には烏山藩(下野国那須郡:大久保氏)の,また海老名市・綾瀬市・藤沢市にかけては佐倉藩(下総国印旛郡:堀田氏)の領地が散在しており,これらは廃藩置県によってそれぞれ烏山県佐倉県が管轄することになりました。
佐倉藩を経て佐倉県の管轄となったのは現在の海老名市域に含まれる国分村・上河内村と綾瀬市域の吉岡村・小園村,および藤沢市域の用田村の一部ですが,地図を見ればわかるとおり(基本的に現在の大字に引き継がれています)このたった5つの村でさえお互いに連続していません
逆にその用田村には佐倉藩領だけでなく烏山藩領旗本領が,また現在の相模原市域に含まれる下溝村には幕府領・烏山藩領のほかに荻野山中(やまなか)(相模国愛甲郡:大久保氏=小田原藩の支藩)の領地も設定されていたので,廃藩置県後も1つの村が神奈川県・烏山県佐倉県または荻野山中県の3県に分かれて所属するというありさまでした。

もう1つ。現在は茅ヶ崎市に属する堤村と寒川町に属する大曲村の2つの村は版籍奉還当時は三河西大平藩(愛知県岡崎市)に属し,廃藩置県後もさしあたり西大平県の管轄となっていました。
西大平藩の藩主は大岡氏。初代藩主は,8代将軍吉宗の時代の(江戸)南町奉行として有名な越前守忠相(ただすけ)です。実はこの2つの村は,寛永年間にこの大岡氏旗本に取り立てられて以来の,大岡氏にとっては本領ともいえる領地でした。その後,大岡氏は各地で領地の加増を受け,特に忠相の代(ただし,忠相自身は大岡氏一門の他家からの養子)に将軍吉宗から相次いで領地を追加された結果,合計でめでたく1万石を突破して大名の仲間入り,となったわけです。このとき一番多く領地を与えられたのが三河国内の村々でした。そこで忠相三河の領地内西大平村(額田郡)に陣屋を置いたので,この藩は西大平藩と呼ばれているのです。ちなみに,忠相自身が三河の領地に行ったことはないといわれているし,彼のは三河ではなく,この堤村のお寺にあります。

このようなことが,全国各地にあったわけです。

神奈川県旧高座郡7市1町の変遷

さらに,1万石以下の極小藩から100万石規模金沢藩(加賀国石川郡:前田氏)まで旧藩の規模にはあまりにも大きなばらつきがあり,そのままでは全国一律の県治体制を確立することはできません。小さな藩はいくつかを合併し,大藩は適当な規模に分割する必要があります。

これらの問題は同年11月(太陽暦:1871年12月〜72年1月)に行われた府県の統合によって解消されることになります。この統合によって,府県は旧来のを単位とした3府72県に再編成され,そのそれぞれに府知事・県令(知県事から改称)以下,府県幹部の人事が発令されました。
下野国(現栃木県)に県庁を置く烏山県や下総国(現千葉県)に県庁を置く佐倉県の飛び地を含んでいた相模国高座郡郡全体神奈川県(当初は足柄県)に所属することになりました。
その後,何度かの廃置分合を経て,現在の47都道府県に直接つながる地方行政区画が確立することになります。
これ以降の府県の変遷については,こちらをご覧ください。

府県の変遷


版籍奉還から廃藩置県まで:  北海道・東北関東中部近畿中国四国九州

版籍奉還以前の藩の異動

廃藩置県および第1次府県統合にかかわる太政官布告



参考資料



幕藩体制下での全国諸藩の変遷

当ページでは明治維新以降,すなわち明治政府の下での府・藩・県の変遷を扱っています。
ところでとは言うまでもなく,本来は徳川政権・幕藩体制下での大名の所領および統治組織をさすもので,つまりは江戸時代のものでした。
そしての領域や領主,裏返せば各大名の所領や本拠地は,明治以降の府県以上に幕府(名目上は将軍)の手によってきわめて頻繁に変動していて,その変遷をたどるのは非常に困難です。

この幕藩体制下での諸藩所在地・石高・歴代藩主・簡単な沿革などについて手際よくまとめたサイトがあります。
当ページの前史として(…というより,にとってはこちらが藩史の主部でしょうが),以下のサイトを覧になることをお奨めします。

>> 江戸三百藩HTML便覧 (ken さん)



2001.10.23
2013. 1.29 改訂
ISIDA Satosi